正しさという視野狭窄
終わり始まり
始まった何かは必ず終わりを迎える。これはどうしても避けられない摂理だね。だからといって初っ端から終わりを考えて憂鬱になる必要はない。始まった今をしっかりと受け入れてあなたなりのやるべきことをやればいいだけだ。ところが、普段からやりもしないし、はじめもしないのに思考だけ先回りする癖がついているから、独り勝手に不幸だと思いこんでいる。それもあなたにとっては楽しみの一つであればそれでもいい。けれども、あまりに辛いと感じるならば、すぐにそれを手放せばいい。ところがこれが思っているよりも難しい。なぜならそれがあなたにとっての生きることそのものになってしまっているからだ。だから、何も考えるなと言われれば言われるほど何かを考えずにはいられない。さらに何も考えないようにしようと考えすぎてやっぱり辛くなってしまうことがほとんどだね。
逃げるが勝ち
そういうときは、逃げるのが一番だね。ところが真面目が良いことだと教えられてきたあなたにとっては、それはとても許しがたい行為だと思いこんでいる。だからありのままを受け止めなさいなんて言われてしまうと、そのまま苦しみを独りで受け止めなければならないと感じている。ありのままを受け止めるというのは、現実から目をそらすことではなく、嫌だなぁと思っていることそのものを受け止めることだ。だから嫌だなぁと思っていることに従ってやれることをやればいい。そこでちょっと距離をおいたり、その場から立ち去ったり、そもそもそういう場面に出くわさないように行動を変えることが、まさに受け止めることなんだよ。嫌なことに向かい合って独り戦ってもいいけれども、こりゃダメだなと思えばスタコラサッサと逃げるのは、決してやましいことではないことがわかるだろうか。
戦わずして勝つ
そもそも何に対しても真摯に対峙する姿勢が良いことだと思っている事自体が、すでに視野狭窄に陥ってしまっているね。道がその一本道しかないと思いこんでしまって、ふと顔を上げると大草原にいること事態が見えてないわけだ。大草原にはどんな方向にも空間が広がっているわけで、あなたはどの方向にでも踵を返すことは簡単にできるはずだからね。それに、仮に真正面からぶつかってそれを克服したところで、その時点であなたはすでに満身創痍だ。そんな余計な傷はできれば少ないほうがいいに決まっている。華麗に避けて違う場所へ行くことや、道から逸れることはよく考えてみれば、その方が自然であり、まさに生き生きとした行為であることは間違いない。変な思い込みから開放されるには、多少あなたが思っている正しさから外れてみることも、時には新たな生き方の発見につながるから少しずつでもやってみることをオススメするよ。