責任という偏見

日々

順風満帆

ゲームで遊ぶのは好きかな。ゲーム好きのあなたなら、アナログの人生ゲームとかモノポリーとかであっという間に一夜を過ごしたなんていう経験もあるかもしれない。今はネットが発達してオンラインゲームに夢中になって毎日寝不足になっているかな。とにかくゲームは短時間に様々な困難が降りかかるように設計されているね。ゲームではそれをきちんと受け止めているのに、現実の人生ゲームにはできれば困難やトラブルが起こらないようにそっと過ごしているのはどうしてだろう。ゲームは理不尽にあなたを困らせるイベントが矢のように降り注ぐ設定になっていればいるほど、あなたはそれを面白がっている。でも、現実の人生ゲームにはそれは勘弁だと思っている。そりゃそうだ、ゲームだと何度でもやり直しはできるし、所詮ゲームだしと反論するだろう。けれども現実でも結局はゲームを楽しむぐらいの人生としてきちんと成立しているね。全くの地獄ゲームならそうはいかないのは知っているはずだ。

責任

よく考えてみれば、ゲームは作者のプログラムやアルゴリズムでプレイヤーのレベルに応じてランダムにイベントが発生するように設計されている。もしそれがバグかなんかでどのプレイヤーにも何も起こらなければ、そのゲームはクソゲーとして誰も見向きもしないね。それと同じといえば反論があるだろうけれども、現実の人生においても生まれて死ぬまでなにもイベントがなければどうなるだろうか。もちろんゲームはそういう現実を仮想空間として再現しているものであって、ゲーム中に結果がどうなろうと責任もなにもない。でも人生においてもあなたのせいで何かが起こることはまれで、あなたはどれほど気を付けようと気をつけまいと起こることは勝手に発生している。そこで本気で憤ったり絶望したりするのが現実で、ゲームなら笑っていられる違いは、責任という、わかったようでわからない言葉で左右されているだけなんじゃないだろうか。

免責

それはあなたの意思なんて云うに超えている自然現象だね。人間関係も2,3人ぐらいならあなたはコントロールできる気でいるかもしれない。けれども実際はそういうわけにはいかない集団であり、かつそれぞれの関係者なんかを合わせると膨大な数になってしまう。その中であなたができることや、あなたが何かをする影響範囲なんてたかがしれている。それなのに、一人深刻な顔で責任を果たすとか、責任を取るとか簡単に言うけれども、そもそもそんなことできるわけがないという別のあなたもいる。今日はいい天気だと思っていたけれども、突然雨に打たれたところで、あなたはなんの責任を取ることができるだろうか。社会は契約で秩序が守られていると教えられてきたけれども、契約を履行する努力は精一杯するけれども、それ以上のことは計り知れないのは等しく平等だね。そこだけ重々しく感じるように仕向けられてしまうけれども、そこは簡単に言えば「気持ちの問題」でしかない。ならネットゲームと現実の人生の違いはそれほど大きくないのかもしれないよ。