また今度

日々

信じている

あなたはなんてことのない日常で、必ず明日が来ると思っている。だからこそ、カレンダーに未来のスケジュールをせっせと記している。もし今日で最期だとしたらそんな馬鹿なことはする気にもならないだろう。今日はここまでにして、続きはまた明日にしようというのは、明日が必ず来ると信じているからに過ぎない。だから年間カレンダーを見ても違和感がないし、来週は忙しそうだとまだ始まってもないことに今から対処できる。これが人生の醍醐味であると言っていいほど奇跡なんだけれども、あなたは固く信じているが故になんとも思わない。そして、スケジュールに記したイベントがやってきてそれをまさに体験している。それが、なんて素晴らしいことなんだろうとは決して思わず、どちらかというと面倒に感じていることが多い。だってそれが来ることに関して微塵の疑いもないし、今更それがすごいことだなんて言われても全く腑に落ちないね。

観えている

そう、固く信じて疑いもしないことが目の前で繰り広げられている。そしてそれをあなたは映像として見ている。ところが観えているそれらは、あなたがすべて知っているものであり、信じているものだけがクローズアップされて観えているわけで、気にもとめない多くのものもそこにはたくさんあったはずだ。けれども、あなたが信じて疑わないそれしかあなたは観えないね。多くの群衆の前で、推しがパフォーマンスをしている。あなたにはそれがはっきりと認識できているけれども、その背後の群衆の一人ひとりの顔は知らない人ばかりだ。数千人規模のライブでは数千人分の一部としても、たくさんの他人がそこにいるのにも関わらず、あなたにとってはまるで観えていない。正確には光の信号として映像的に処理しているはずなんだけれども、あなたは全く気にもとめていないわけだ。

あなたの世界

そう、それがあなたの世界だね。あなたは勝手にこの世のすべてをつぶさに見ているし、経験していると固く信じている。けれども、実はあなたの知らないものは観えていない。すべてを体験しようともがいたところで、あなたが知らないものは見えないわけだ。そんなほんの一部だけを見て、あなたの世界はそれがすべてになっている。あなたと素敵な人が映っている映像があれば見返してみるといいね。意識を向ける対象を変えるだけで、全く違う世界がそこに再構成されるはずだ。こんなところにこんな人がいたのか、とか、これは何が写り込んでいるのだろうとか、たしかにその場所にいて空間を共有したことは事実だけれども、実は全く見ている世界が違っているね。そう、その一部を見て良いとか悪いとか決めつけて、さらにまだ起こるかどうかも実はよくわからないことを信じている。そしていつも信じたそれが必ずやってくるなんて、間違いなくやっぱりすごいことだ。あなたはそういうあなたを生きているんだ。