今にある
有終の美
終わりよければ全て良し、ということわざがあるように、途中色々あったけれども、最後の仕上げに全力を使い切ればそれで良いということだ。適当に手を抜くわけでもなく、過度にやりすぎることもなく、今のあなたができる精一杯のことがやり終えれば魂は浄化されるとも言える。別の言い方をすればそれらの一連の出来事を成仏させることができたなら、それ以上でもそれ以下でもなくあなたはまさに今を生き抜いたということだね。当たり前のように思えるこれらのことでさえ、必ずと言っていいほど最初は邪な下心があったり、途中でうまく行かずに他人の目が気になったり、ああ、もう何もできないと絶望の淵にいることもある。それでも、それらの局面でベストを尽くせば結果の良し悪しを問わず、ある種の充実感が生まれる。そしてあなたのステージは一段上昇するような感じがする。もちろんそれらは表現的な言葉のあやであり、そのどれもに実態があるわけではないけれどもね。
今できること
ようするに、どんなことであっても全力を尽くせばいいということだ。そこで変に手加減したり、逆にやりすぎたりすることもまるごと含めて、それがそうならばそうであったわけだ。それに後悔が伴うとすれば、あなたが本当はやりたかったことをやらなかったことだけに起こるはずだ。もちろん、そんなことを超越して夢中になったことがあればそれで完結であり、それ以外の選択肢はあるように勘違いしがちだけれども、実は何度やってもそれは存在すらしない。後づけでそれもあったかな、と付け足しているだけのことだね。だからここで魂を焦がして、良いとか悪いとか、誰がどう思うとか、報われるとか報われないとかそんな次元を超越すればするほど、あなたはあなたであることすら溶けてその出来事と一体化しているわけだね。その体験を刻んでいくことがまさに生きることそのものであることは、おそらく間違いないと言っていいね。
紆余曲折
人は変わる。変わらないのはあなたという過去のデータで組み上げた自我だけだ。だから、そんな古ぼけたデータに執着するよりも今できることを探す方が楽しいね。もちろん、大きく何かが変わるわけでもないけれども、振り返ったところで何も手にすることはできない。ならば今目の前に手を差し伸べて、その手を掴む感覚を頼りにするしかない。それにはありきたりのことだけれども、考えるよりも、知ったかぶりするよりも、今度こそと何度でもその手を掴むしかない。その感触はまさに今を体現しており、また同じ失敗を繰り返すことになるかもしれないと躊躇することも、結局悪あがきとなってしまう。だから、恐る恐るであっても、今あなたの目の前に出されているその手をしっかりと掴んでみよう。それだけですべてが溶けていくんだから。後悔はいつもあとからでいいんだよ。それもセットだからね。