飽食

日々

大量消費社会

良いものをよりお求めやすく、なんていうワードがビジネスでは飛び交っている一方で、昨今の情勢を鑑みてなのかあらゆるモノやサービスが徐々に値上げに転じて日々ニュースを賑わせているね。一方で労働者の賃金を物価の上昇に見合ったベースアップもあちこちで求められていたりもする。一見それらは相反するものであり、矛盾を抱えているように見えるね。さらに増税とか社会保障費の負担増でますます可処分所得が減っていく流れも垣間見える。となると経済成長が根本となった社会システムの設計自体を見直す必要が出てくるのだけれども、そこは先行き不安でタンス預金をして細々と暮らしている高齢者に配慮してか、なかなか抜本的な改革までには至らないね。おそらくはできるだけ先送りしてお茶を濁すという流れになるのはある意味仕方がない状態だね。そんな大転換期の間の中で、とりあえずずっと足踏みしているしかないわけだ。

ミニマリスト

そんな反動でミニマリストを自称する人たちも出現してきた。なんでも手に入れて所有するという生活様式から、必要なときにだけあれば十分でそれ以外はできるだけシンプルに生活するという、一種のサバイバルの方法ともいえる。それが出現した背景も先の大量消費、私有財産という近代の社会構造を投影した影のようなものだ。なんでも新しいものが良いものであり、それさえもすぐに陳腐化するようにしかけられた新製品ラッシュというビジネスモデルが前提になっている。どんなに良いものでも実はその価値は限定的であり、さらに買い物依存症になってしまった現代人の駆け込み寺みたいなものだ。かつての有機栽培に注目したり、過疎化した里山での暮らしがブームになったり、エネルギーの高騰によって再生可能エネルギーへの傾倒などもその一端だと考えられるね。太陽光パネルは一見環境に対する負荷が軽く見えて、実は材料であるレアメタルの害やその寿命の問題をやっぱり先送りしている。さらに山肌を切り開いて設置されたパネルの下の生態系は絶望的だ。その意味では大反対されている原子力発電所とそれほど変わらないことは、巨大なビジネスでもあるからか、巧妙に隠されている。

お腹いっぱい

かつては生きるのに必要な食の確保に、ほぼすべての労働時間が割り当てられていた。もちろん働き詰めではなく、生きるのに最低限であればよかった。それがグローバルで流通することで安く手に入るようになって、24時間腹が減ったら何でも食べられる都会を生み出した。その一方で大量に消費する前提で大量生産された食物は、大量に余剰となり売れ残ったものはそのまま廃棄される。すべてが生きること以上の何かを求めるがあまりにそれが特別珍しくもなくなった。自然界の動物は捕食のために生きた動物を食べるけれども、決して必要以上に狩りをすることはない。しかも万が一失敗すれば自らの生命も危ういね。文明社会には冷蔵庫という蓄えられる文明の利器があるからこそ、その日食べる分だけを手に入れるということすら面倒になってしまった。さらにそれを動かし続けるエネルギーも同時に必要となり、まさに一時も休むこともない社会で暮らしている。さて、あなたはそういう社会で何を幸せだと思いこんでいるのかな。