何をやっているのかわからない
自覚
ほとんどの人は自分が今何をやっているのかわからない。こう言うと多くの人は反発すること想像に難くないね。いやいや、自分のことは自分が一番良くわかっているし、あなたに何かを言われる筋合いなどないと怒る人もいるだろう。でもあなたでさえ、あなたが本当は何をやっているのかわかっていないことがほとんどなんだよ。わざわざ嫌なことを我慢して、他人には気を遣い続けて、言いたいことなんて全部言ったこともなく、そうやって調和を保つために全力を尽くした、あなたはいわば平和維持軍のボスだね。世の中はたいていそういうもので、言いたいことも言えずに、やりたいこともやれずに、文句の一つでも言うようなことをすればすぐに足元をすくわれて、すべてが水の泡になってハブられてしまう。そんないつもの恐怖支配からずいぶんと逃れられないまま、空っぽの笑顔を忘れずに何食わぬ顔で日々過ごしているわけだ。
駆逐
そういうモヤモヤした中で、論理的に正しいと思えば思うほどその主張をやめるわけにはいかなくなる。たとえ誤解して間違っている眼の前の人を論破したところで、社会全体がどうにかなるものでもない。ただ辛辣に目立つ発言と鋭利な表現で言葉を発する目的は、自己顕示欲からくる共感してほしい気持ち以外になんの理由もない。善であるべきとか正義感で悪者をやっつけるのがヒーローだけれども、まさにそのヒーローを演じているわけだ。正義の使者はいつもこの世の悪を苦々しく思っているから、どうも穏やかに笑っていることはなくて、ほとんどが眉間にシワを寄せて目を背けたくなるような悪を成敗していくことに人生を費やすことになる。さらにこの世が悪そのものでできているかのごとく、湯水のように次々と湧いて出てくる。どれだけ正義の使者が孤軍奮闘したところで、いつまでたっても正しさしかない世の中にはならないことに気づきつつも、成敗という悪行を重ねていくしかないわけだ。
救済
悪人正機という仏教の言葉がある。キリスト教では原罪という概念がある。これらの意味は全くもって違うのだけれども、そもそも善は不完全であるという視点からの示唆としてはやや共通項として捉えてもいい。もちろん、一神教と仏教はそもそもの構造が全く異なるので同列では語れない。ここで注目したいのはこの世は不完全であり、あなたもその構成員であるという大まかな前提条件であるという点だ。正義も悪もお互いが相互補完的な存在であり、例えば、裏と表が存在するのに、裏を駆逐して表しかない世界はありえないと同じとも言える。悪者がいるから正義が引き立つわけだし、皆が正義なら安寧な世界になるという仮説そのものに無理がある。古来の昔話のように、村人が平和に暮らしましたとさ、めでたしめでたしなんて実現するわけでもない。あなたはできれば正義側にいたいと思っているし、それに注力しているつもりだろうけれども、そのせいでやっぱりあなたは何をやっているのかわからないわけだ。