欠片
科学
現代は科学信仰の時代。科学とはエビデンスに基づいていることが前提だね。だから検証可能なことしか科学として扱ってはいけないというルールがある。誰でも手順と条件を揃えれば必ずそうなるということだけを信じるという世界だ。だからそれ以外はエセ科学としてまともに取り合ってはいけないと思っている。人生をも科学として捉えるとき、こうやったらうまくいかないということは再検証可能なこととされている。失敗はデータベースとして蓄積され、二度と同じ轍を踏まない資料として有益だそうだ。一方で成功に関しても同じことが言えるだろうか。誰もが手順と条件を全く同じに揃えることができればうまくいくだろうか。実際のところ、その手順と条件を同一に揃えることがとても困難な場合が多い。だってあなたとその人を全く同じにするのには、仮に双子であったとしても趣味趣向や思考の癖などは全く同じではないからね。さらにその計測不能なよくわからないところがキーファクターになっているケースがほとんどだ。
再現
でも例えば石を水面にある角度で投げることが再現できれば、同じような結果が得られる。ある薬品とそれらを混合する割合を正確に測れば同じ生成物を作り出すことができる。実験によって注意深く条件を揃えることができれば再現性が高まるわけだ。だからこそ応用ができるわけで、そうやってとても便利な世の中になった。トランジスタで論理回路を一度組んでしまえば、その計算結果は瞬時に同じになる。それはどんなときでも同じになるという意味で信頼ができる。信頼ができるから信仰するに値するわけだ。ところが一方でまったくもって同じになんてならないことが世の中にはあふれるほどたくさんある。人の感情の動きなんかがそうだね。傾向やベクトルは似たような結果になることが多いけれども、科学として間違いなく再現できると言い切るにはまだまだデータ分析とそのパラメータは十分ではない。
同一視
それでも人は全くバラバラで違うものの中で似たような同一性を抽出する力が備わっている。単純にこの世界には同じ形をしたものは、同じ形にしようとして生産されたもの以外はバラバラなのが自然だね。リンゴの品種は同じであってもその外見や大きさや甘さすらそれぞれ違う。しかしあなたはそれを同じ種類のリンゴだと認識することはできる。気にもとめない路上の礫にしても、単なる石ころで同一でおおざっぱな見方をしているからそれぞれが実は唯一無二であることすら気がつかない。そうやって同じものとして見ることで厳密性を捨象している。だからこそ例えば石の組成は二酸化ケイ素だと区分してしまうことで、姿かたちを見ようともしなくなる。工業や科学にとっての有益さは個性的な形ではなく、むしろその成分の方だからね。となるとあなたは人間であるけれども、単なる細胞の塊である多細胞生物の一種であるだけとなる。そこに心や感情はおまけみたいなものだ。そうやって見える世界が今あなたが見ているそれだね。科学であなたを見るとあなたは欠片でしかない。