虚無と中立

日々

虚無

よくある例え話だけれども、目の前にコップの水が半分入っている。それ自体は自然な現象の一瞬であり、良いも悪いもない中立な状態だ。ところがそれを見るあなたはどちら側に立って眺めるかで全く違う景色になる。半分の水があることが事実だとしても、それをまだ半分という視点から見て幸せだなと感じるのか、それとももう半分だという視点からみて不安に駆られるのか、全く中立な単なる事実があなたがどちら側に立って眺めるかによって真逆の意味を帯びる。そして両極のどちら側にもいるあなたは、それを幸せだとか不幸だとか騒いでいるわけだ。そしてそのたまたまあなたが選んだその立脚点から一事が万事世の中を覗き見たと思い込んでいるわけだね。

言葉と論理

さらにその立脚する視点はどこにあるのか。意識の中に自己があるのか、自己があるから意識が生まれるのか、それも先のコップの水と同じなわけだ。さらに物事があって意識が決めるのであれば、宗教やスピリチュアルの側から見たほうがどうとでも捉え直すことができる。だから、そうやって物事そのものに囚われてしまうぐらいなら、まだ精神とか意識とか自己みたいな世界に軸足を置いた方がましだろうというのも、実は多くの選択肢の中のほんの一つでしかない。言葉の世界で考えるしか手立てがない世界に生きているのならば、結局はすべて言葉遊びではないかと勘ぐってしまうのも無理はないね。論理性や言葉の性質上その手のひらの向こう側へは道は続いていないからね。

非整合

いかに論理性と正当性を主張したところで、あなたはどこかの視点に軸足を置いてからでないとどう頑張ってもあがいたとしてもできそうにない。そしてその軸足をコロコロ変えると途端に批判を浴びるけれども、それも実は自然なことだということがわかるだろう。物事には良いも悪いもなにもないからだ。事実と現象はそれ以上の意味を持たない。それを最悪だと思うのか、希望の光だと見つめられるのか、そのどちらかしかあなたは思考できないのだ。もちろんどっちでもないと中立を貫くことも不可能ではないが、先の言葉の性質上は、かなり困難なことがわかるだろう。中立というのは言葉にならない世界をどこまでさまよい続けられるかを問われるからだ。すなわちそれが思考の世界からできるだけ離れて、今にいるという難しさをまさに物語っているわけだからね。