何が見える?

日々

老眼

歳を取るといわゆる老眼と呼ばれる現象が多かれ少なかれ発症し、近くものもが見えにくくなるね。もちろん徐々にそうなっていくわけだから、急に起こっているわけでもなく少しずつ進行している。ところがそれに気がつくときはある閾値を超えた瞬間に突然に違和感を覚えるわけだから、あなたは急に発症した気になっている。ああ、いよいよあなたもそういう年齢なんだと再確認することになるから、やっぱりある日突然という印象が強くなるわけだ。いくら目を凝らしても、今まで何の苦労もなく見えていた世界が、ぼんやりモヤがかかってしまうわけだから無理もない。もちろんそれを補正するための眼鏡はかなり進化しているので、日常生活で多少は困るけれども影響としてはそれぐらいでしかない。それよりも老いるという恐怖という精神的なダメージの方がどちらかと言うと大きいね。

見えない世界

それで、改めて見ている世界は眼球という器官を通じて認識していることを再確認する。できればよく見える世界で暮らしたいと願うわけだ。一方で眼球が光を電気信号に変えて脳へ送った後の映像化という処理はまた違う次元で行われている。だから、同じものを見ても人によっては全く感じ取るものが違ったりする。あなたと共感できる部分もあれば、全く違う世界を生きている人もいることを知っている。まさに現代ではそれを多様性という言葉で包括されているけれども、そんな高次元でなくても雄大な景色を目の前にしたときに、注目しているところが全く異なったりしている。あなたにとってそれは言われてみて初めて気がつく箇所であったりするし、あなたが注目しているそれは、相手にはまるで見えていないかのような反応を得たりする。おそらくお互い見えない世界がいつもそこに広がっていることになる。

意識と自己

意識があると自己がなくなり、自己があると意識がなくなる。それと同じように見ているものがあったりなかったりするわけだね。どちらが間違いとか正解とかそんなレベルの話ではないことに気がつくだろう。それもこれもなにかが見えているという世界はバラバラに存在しているということは、言い換えれば眼球が確実に存在しているということでもある。その眼球を通じて見ているはずだけれども、ある人はそれに注目して、またある人はそれに全く気がつかない。それもこれも眼球がなければその現象すら起こり得ないわけだ。何を見ているのか、何を見ていないのかということで、それぞれの世界で、これはあるとかこれはないとかいつも議論になったりするけれども、その議論さえどっちでも全く問題がないし、そもそもその決着なんてどうでもいいということだ。