なんとなく
感覚
なんとなく、感じたままに行動することがある。それは特に意味があるわけでもなく、それこそ無意識に行われることではあるけれども、だからといってそれをやめることもない。結局のところそれを意図的に選択しているわけであるし、むしろ積極的なそれであり遠ざけようとする意図もないね。なんとなく嫌いだとか、なんとなく好きだとか、そこにいちいち理由を求めることもない。それはあえてそういう選択をしているという明示的な行動であり、むしろそのほうがいいと確信がどこかであるはずだ。だから正確に言うと無意識でもないし、なんとなくでもないわけだね。
制限
そこにはある種の制限もある。それでいいのかという逡巡もゼロといえば嘘になる。感覚といえどもそこには明確な意思がある。ややもすればそのときのほうが確固たる強い意思があることがほとんどだ。だからなんとなくという接頭語は本当のところ正しくなく、むしろ積極的にそうしたとも言える。そういった現実のなかでの選択をあえてぼやかすことは、一体何を意味しているのだろうか。そこに幸せの源泉とも呼べる大きな流れを見出すことができるだろう。おそらくそれは普段の思考から少し離れたということであり、あれこれ考えてはいるものの、それをあえて強い意思で選択することをやめたということを指すわけだ。
自我
その意味では自我から少しだけ離れた瞬間でもあるね。もちろん、意図的にそれを選択しているという意味では自我のまっただ中とも言えるわけだけれども、それでも思考の計算結果を意図的に採用せず、それ以外の結果を選択したことになる。もっと言えばそれはおそらくはそうしたほうがいいという感覚でもあるけれども、同時に意識的な判断である。そこで細かくそれはやっぱり意識上での自我のいつもの選択だとも言えるし、そうでもないと表現することできる。そんな言葉遊びの中で生きるのもいいけれども、感覚は感覚を選択するというシュチエーションを楽しむのも一興だ。もちろん意識上でしかないとか、どこまでいっても自我の中でしかないわけだけれども、あなたを浮かび上がらせているのは、どこまでいってもそこからは逃れられないわけだから、それでいいんだよ。