調光

日々

どちらでもいい

わがままであることと、謙虚であることと、実は同じことなんだ。正直どちらでもいい。世の常としてはわがままであることよりも謙虚であることを求められているがあまりに、わがままなあなたはそれを良くない性格だと気に病んでいたりするだろう。もしくは謙虚であるべきだということに強くこだわりはじめると、自由奔放な存在を正義という名のもとで断罪してしまうかもしれない。いずれにせよ、そのどちらでも結局はおなじあなたであって、要するにあなたにこだわりすぎないということが肝要だということだ。だから、わがままであろうと謙虚であろうとその時々の光の反射によって浮かび上がっているようなもので、本質的な相違はそこにはないんだ。

他人の顔色

ではなぜわがままな自分を許せないのだろうか。あるいは謙虚なふりをして強いストレスを抱えてしまうのだろう。それもこれも原因はとてもシンプルだね。結局それはあなたが好かれたいからであって、他人の顔色を伺いながらビクビクして暮らしているからだ。あなたという幻想も他人という幻想もこれまたどちらもあるようでないようなものだ。それは相互補完的なものであって、他人を強調すればするほどあなたは鮮やかにくっきりと浮かび上がるだろうし、他人を気にしなければあなた自身もぼんやりとした存在になっていく。だからよく言われるように、周りの目ばかり気にするな、というアドバイスは逆に言えば、あなたをそんなに大事に思うな、ということ同じなんだ。強い光は濃い影を落とす。淡い光は影もぼんやりとする。そういうことだね。

こだわり

あなたはあなたの影を確認するために、他人という光を強くしがちな傾向にある。そうしないとあなたと他人の境界線がはっきりと見えないからだ。たまにそうしてあなたなりに安堵が得られるならばそれもいい。けれどもいつも明るすぎる部屋にいると疲れてしまうね。この地球のほとんどの地域に昼夜があるように、できれば光の強さをグラデーションのように操ってそのメリハリを楽しめるといい。ときにははっきりくっきりとした影を楽しみ、ときにはぼんやりと溶けていくような影を愛おしく思うのもありだ。いずれにせよ、ずっと白黒はっきりさせようとか、ずっととけてしまうぐらいの存在であろうとか、それ自体が不自然なことだ。だからわがままであろうと謙虚であろうと、自然であればそれ自体が問題になることはないね。