観測点
あるようでない
この世はあると思っているけれども、ないとも言える。いろんなものがこの世を構成していると認識しているだろう。けれどもそれらは何もかも単体では存在し得ない。純粋な鉄は取り出すことができるだろう。けれどもあっという間に表面は酸化して別の物質にどんどん変わる。肉体的にもあなたの手はそこにある。それでいろんなことを生み出してるわけだ。でも、手はどこからどこまでかという定義はとたんに難しくなる。手のひらはここだよ、とあなたは当たり前のように答える。けれども、その境界に際までいくともう任意に決めるしかなくなるね。なぜなら手首との境目に線が引いてあるわけではないからね。単純な話すべては繋がっているわけで、そのおおよその部分を区別して名前をつけているだけなんだということ。物質的にも機能的にもこの世の全てはなだらかにつながっているというわけだ。
関連性
そう、あるようでないというのは、すべては関係性をもって有機的につながっている状態だからだ。ある一方向からみて、なにか確信めいたものを感じ取ったとしても、反対側からも同じように確信めいたものを感じている人も必ずいる。この世はもう終わっていると嘆いている人がいる一方で、初めての恋人ができた少年の未来は希望に満ちあふれている。そうやって部分的に切り取ってそれらの世界はまさにそこにあるわけだ。どこかに向かって進んでいるような感覚を持っている人もいれば、どこにも向かっていないと嘆いている人もいるのはそのせいだね。まさに解釈の多様性がそこに広がっているわけで、何をどう断言したところでそれらは実質なんら力を持つことはない。仮に悪く言われて落ち込んでいたとしても、それを悪く言われたなんてどうやっても証明できないわけだ。
偏見
だから、どこからこの世を見てもその先はすべてつながっている。どこから見ようが、どこを切り取ろうが、どこにむかっていようが、すべてはあなたの勘違いだ。この世はどこにも向かっていないし、良いも悪いもどれだけ探しても見つからない。ならばあなたはどう生きたいかが一番の課題だね。何をどうやっても、何をどう区別しても、何をどう論破しても、そんなものはすべて真実からは遠ざかった仮説でしかない。それを真に受けて不幸だと嘆いているその瞬間も、実は大きな幸せに包まれていることは避けられない。何の道をどう進もうが、どこにもたどり着けないと焦ろうが、全くついてなかろうが、それもこれもすべて大きな幸せの中にしかない。そんなの嘘だと叫んでみてもいい。それも幸せだからそう叫ぶことができているんだよ。すべてはあなたの勘違いでしかなく、単に見る方向がそうなだけというのが真実なんだからね。