何が起きても大丈夫

日々

どうであってもいい

この世は幻なのだから、心配しないでもいい。すなわち、何が起きても大丈夫だよ。その言葉は今までも事あるたびによく聞く話だね。心配性のあなたはそんな呑気なことで万が一事故にでもあったらどうするんだと即座に反発する。その備えを普段からよくよく考えているからこそ、日常の日々のほとんどの時間とそれにかかる費用に追われている。なんだかあべこべに聞こえるかもしれないけれども、それもこれもみんな何が起きても大丈夫なように一所懸命に対策をしている。あなたは必死に何が起きても大丈夫なように準備と努力をしているというのに、隣人の彼がそう言うと、とても軽々しい発言に聞こえて、ちょっと腹が立ったりしている。そういう彼はあなたから見ると特に何か備えているわけでもないように見える。だから、余計に気に入らないわけだ。

有事

実際災害に見舞われたとき、何が起きても大丈夫だと言っていた彼は、とても動揺して慌てふためいていた。被害が甚大になったらどうしようと、おろおろとうろたえてもいた。そんな姿を見てあなたは「そら見たことか」と落ち着いて見ている。何が起きても大丈夫じゃない状況になっているじゃないかとほくそ笑んでいる。あなたは十分なシミュレーションと準備をこれまでしてきたが故に、極めて冷静に対処できている。でも実際はとても大きな揺れを体験して、やっぱり本当はかなり動揺したことは隠している。ゆれが収まったときに備えがあるという安心を取り戻したあなたは、いわばポーカーフェイスを装ったわけで、実はそれは嘘の仮面なのはあなたが一番良く知っているね。うろたえてみっともなく慌てふためいた彼とあなたは実は内面では何も変わらない。

結論は同じ

それでも、何が起きても大丈夫という言葉はどちらのケースでも実は真理をうまく表しており、普遍の法則であって嘘偽りもない。うろたえても、焦っても、備えなんてなくても、もしくはあなたのようにとても心を乱したことを巧みに隠していても、どれもこれも何が起きても大丈夫だったね。起きた出来事がどんなことであろうとも、例えそこで残念ながら怪我をしたとしても、かっこ悪くなったとしても、それらが全て大丈夫だと言っているわけだから、結局は結論は同じだ。そう、慌てふためくあなたがいたとしても、冷静さを装った小心者であろうとも、すべてが自然にそうなることを知っていたのだからね。どちらにしても地震という現象に対してあなたや彼が反応して起こったことであることなのだから。やっぱり何が起きても大丈夫だと言うしかないわけだ。大丈夫じゃないと慌てるあなたもそれが単に起きたこと。すなわちやっぱり包括的にその言葉に過不足なく含まれているわけだからね。