不自由な言葉の世界

日々

中道

伸るか反るか、やるかやらないか、良いか悪いか、好きか嫌いか、そんな両極であなたはいつも揺れ動いている。でも心穏やかに過ごす道はその両極にはない。倹約生活で幸せになれるとか、豪華絢爛だけが幸せの道だとか、そのいずれも実は正しくはない。そのどちらでもない中庸な部分が一番幸せに近い場所であることは間違いない。恨みつらみや妬みや嫉妬に狂っていると、そうでないところがベストだということにも気がつかないし、質素な生活でなければいずれ不幸になると思っているうちは、いずれにせよあなたが望む生活とはどんどんかけ離れていくのはそういった原因があるからだね。

言葉の世界

そうやって両極端に振り切ってしまいがちなのは、言葉の世界にあなたがいるからに過ぎない。言葉にできない領域にこそ真実はあるのにも関わらず、すべてを言葉の世界で決着をつけようとするからそうなるわけだ。言葉を操るのは思考であって、それを唯一無二の拠り所としてしまうとフィーリングは軽んじられる傾向にある。あなたはあなたが知らない言葉にはできず、かつ、あなたの言葉を探してみたところですべては元々ある言葉しか使えない。すなわち言葉の世界にはあなたはどこにもいないということだ。あなたの言葉なんて一つもない世界で、あなたはあなたを定義しようと必死にもがいている。その結果、ほとんどが不本意だけれども思考の結果それが正解だと思い込むしかないわけで、もやもやするのは当然といえば当然なことだね。

自然の中で

自然に言葉は必要ない。感じるだけでいい世界だ。もちろんそれをなんとか言葉の世界に変換しようとする試みは楽しむためにあるのであって、決して苦しむためのものではない。元ある言葉を巧みに使うことで幸せになることが大前提であり、それを意識するがあまりに不十分なツールに縛られては本末転倒だね。本来言葉は豊かな想像力や、その文脈や言外にある何かを表現するためにあるものであって、そこに縛り付けられるためのものではない。だから誰かを徹底的に論破したり、批判したり、揶揄するために使うのは誤用となる。そういった呪いの言葉は実際に飛び交っているけれども、それらには余計なパワーを与えてはならない。目的を誤ったそれらの言葉はすべて無視するのが一番だね。逆に言うとそれらの言葉に霊を与えてしまっては、あなたは言葉の世界に閉じ込められてしまう。すべてを白黒はっきりとさせてしまう不自由な言葉は、すぐさま捨ててしまうに限るね。