生と死
生き様
あなたがこだわる生き様は、あなたがルーツであるわけではなく、むしろこれまで触れてきた誰かの生き様のいいとこ取りだ。もちろん、好みがそこに含まれてはいるけれども完全にオリジナルだと思うのはやめたほうがいいね。それは大いなる勘違いであって、あなただけであなたが輝くことはできない。相対的ななにかがあって成立する。光が当たれば影ができるように、あなたの好みがそうであって、それはあなたの役割であることは間違いないんだけれども、それが絶対であるわけではない。むしろすべてが相対的であって、それしかないと思い込むのは害があるどころか、あなたの可能性をも失ってしまうことになるから注意しないとね。もちろんそれがゲームの難易度を選択するように楽しめているのならばその限りではない。
しなやかさ
やりたいことと、やりたくないこととが思い通りに行かなくて、なんて歌があるように、あなたの好みや思い通りに行かないとストレスに感じる。けれども、それが絶対ではなく相対的なものであるとわかれば、違う道を模索することもできる柔軟さを兼ね備えることができる。こうでなければ生きている意味ががないんだとか、声高に叫べば叫ぶほどあなたはどんどん不幸の術中に巻き込まれてしまう。そうではなく、これが好きだと思っているけれども、実はそうではない違う方法があるのではないかとあらゆることを疑ってかかることができることを柔軟さと呼ぶ。そうやってしなやかさを取り戻したときに、あなたはまた新しいあなたの可能性をそこに見出すことができる。固定観念であなたを好きだと思う色一色に、なにもわざわざ塗りつぶすことなんてナンセンスだ。
可能性
そもそもあなたは何者でもないし、何色でもない。だからこそ、何色に染めてもいいという自由がそこにある。真の意味での自由とは、そういうことだ。だから最初からこだわって決めつけるのが人生のスパイスとして用意されているわけだけれども、それがどうにもこうにもままならない場合は作戦をいつでも変更して良いんだよ。なにかに固執しているから、スパイスとして成立しあらゆる出来事を楽しめるわけだけれども、それが度を過ぎると苦しみに変わってしまう。すなわち快と不快は対局にあるものではなく、隣り合わせにあるものだ。もちろんよく言われる生と死も対局にある事柄ではなく、隣り合わせで同居しているものだね。どちらが一方だけが存在することなんて一瞬たりともできるわけではない。もはや同じものだと言っても過言ではないね。