見えないわたし

日々

それを誰が見ているのか

わたしはわたしだと思っていろんなものを見ている。ちょっと何言っているのかわからないよね。たとえばゲームで言えば主役キャラ。FPSでいえば一人称の画面が目の前に広がっている。一人称の画面には主人公はどこにもいなくて、敵キャラや風景が映し出されている。ゲームをプレイしているのはわたし。コントローラーをもっている手は見えているから、操作しているのはわたしだと思っている。しばらくゲームに熱中するとゲームの主人公になりきる。ああ、そこから来たか!またやられた!こんちくしょう!なんてつぶやきながらゲームの世界に引きずり込まれる。そうなれるゲームは楽しいわけです。ところがどうも気乗りしないというか主人公になりきれない要素がたくさんあるゲームはクソゲー。いくらやってもおもしろくない。

本当の主人公

で、そろそろゲームに飽きてきたら、電源を落としてゲームを終了する。さっきまで映し出されていたゲームの世界は真っ暗になる。画面から目を離して、画面の外に広がるのはいつも見ている机の前の風景。そこに戻ると、現実の世界が広がっているわけ。ああ、ちょっと疲れたなぁ、なんか食べようと思っていたりする。でもちょっと余韻を引きずって、今日もボスキャラ倒せなかったなぁ、次はどうやったらクリアできるかなーと考え始めたりしている。これはゲームの世界じゃない。コントローラーで動かない日常の風景に戻る。さっきの主人公はゲームの中にいる。今の主人公はわたし。まぁ当たり前にそう思っている。

わたしを見ているもの

ゲームの画面が消えて、日常の風景が目の前に広がっているけれど、それを見ているのは誰か。それはわたしだよ。そう思って疑わないけれど、ゲームをやりすぎた後はちょっと混乱するときあるよね。さっきまでのプレイ画面を思い返しながら終わってもあれこれと考え続けてしまっているときもあるからね。いかんいかん、まださっきのゲームで頭が一杯になっていると気を取り直す。しかし最近のゲームはよくできているなぁ。見ている景色には私は常にいない。わたしが見えないから一人称だと感じられるようにできている。ゲームを終えたわたしは相変わらず見えない。見えないからわたしだと感じられる。なるほど、「わたし感?」を演出するには、わたしが見えないようにすれば没入感がすごく高まるんだねぇ。わたしからはわたしは見えないのが良いんだよね。見えたらわたしじゃない感がでちゃうから。

あれ、これってふだんと同じ設定なのかな。いつもわたしが主人公だと思って生きているけれど、わたしはどこにいるのだろう。見えないけれどずっとそこにいるはずなんだけど。
ちょっとゲームのしすぎだな。気をつけようっと。