ありのまま
決着
いろんな出来事が起こるわけだけれども、それぞれにあなたなりに決着をつけて進んでいる。もちろんそれが完全なる解決というわけではなく、折り合いをつけるというか、あなたなりに納得して腑に落ちるということと同じだね。もっと言えば解決なんてこれまで一度も達成したこともないし、完全解決だと一瞬感じたりするけれども、それはその一瞬だけのことであって、その後どうなるかはいつも未知の状態だからね。その状態をちょっとよく思い出して見るとわかるけれども、それはその途中を切り出したものでしかなく、それ以外の災いごとがすべてクリアになるわけではない。ただ何かが起こったということを、結局はあなたの中で受け入れるという瞬間でしかなく、それをあなたは決着がついたと思うことにしているだけだね。
一難去って
そうやって、嵐をやり過ごすような人生を歩んでいる。もちろんまた嵐がやってくることはなんとなくわかっている。もはやそれを未然に防ぐことはまだまだ出来ないし、それをやろうとジタバタするけれどもやっぱり大自然の流れと同様に、どうやら避けようもないわけだ。次の嵐には備えはあるとしても、それが役に立つかどうかは誰にもわからない。その中であなたはすっかり幸せに包まれてスキップしながら軽々と過ごしている。そう、それが人生の本質だね。不安に駆られて世の中を疑いの塊だと疑ってしまうと、まさにその通りになる。一方で、この世を謳歌している状態では、そんな嵐を気にもとめずただひたすらに幸福感でいっぱいに包まれている。ようするに自然の流れと一体になることができれば、なんの心配もなくなるという仕組みだ。穏やかな日々も嵐の日々も同じ自然の流れとして受け入れているからそうなるわけだ。
自然の一部
あなたの感情の揺れ動きも同じことだね。不安に苛まれてすべてが疑心暗鬼になっている状態も、すべてがあなたのためにあって、幸せいっぱいな穏やかな日々を過ごしている状態も、実は同じ日々だということを意味している。それに一喜一憂して毎日を過ごしているわけだけれども、それこそがまさに自然と一体になっている証拠でもある。毎日が幸せいっぱいであることを願ってやまないけれども、もしそれが本当に実現すれば、あなたは幸せの本質を見失ってしまう。だから、それをわざわざ確認するために不安という感情を取り込もうとする。すべてが照らされて影のない世界なんてそれこそ不自然だと感じるからだね。影を見つけて喜んでいるのはそういうことだ。それでほっと胸をなでおろして、また幸せを噛み締めたいと思うのは自然であって、それでいいわけだ。それをありのままと言うんだね。