信じること
信じること
それはどうあっても確固たる真実だからこそ、心から信じられると思い込んでいる。けれども、実はその真実だとされているものがどうであっても信じることはできるね。すなわち、真実だとか、皆がそう言っているとか、ニュースを賑わせているからだとか、そういった理由は特に必要もない。そんなことがなくても、信じることはいつでもできるし、その根拠やエビデンスなんてあなたにとってはどうでもいい。だからこそ、何を信じるか、何を拠り所にするかはあなたは完全に自由に決めていいはずだね。ところが、そうやって信じていたことが突然誰かに、それは間違っているなんて指摘されてしまうからひどく動揺してしまうわけだ。
疑惑
それで、今までの拠り所を洗い出して、本当にそれらが正しいかどうかを検証し始めてしまう。先に述べたように何も正しいから信じられるとかそういう関連性は本来は全くないにもかかわらずだ。そして疑いの目で犯人探しをしてしまうと、すべてが疑わしく見える世界に突入してしまうわけだ。そしてあなたは、もう、何を信じて良いのかわからないと途方にくれる。正しいから信じる、間違っているから信じないなんて、あなたが勝手に決めたルールでしかないのにも関わらず、正しいことだけが信じるに値するとした瞬間に、その物事の根本を追いかけたところで実はきりがないことに気がつくだろう。そしてもはや追いかけ切ることを諦めたその時点での正誤判定を無理やり下す羽目になるわけだ。
真実になる瞬間
あなたが真実だと思ったことは、真実であることに間違いはない。もちろん科学的に検証したり、論理的に整合性をチェックしたりしても大丈夫だとしても、それが真実だという確証や証明は「今のところ」という前提条件付きでしかないね。だからこの先もずっとそうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。そんなことよりも、あなたがそれを受け入れてこれだと思ったその瞬間は、あなたの世界においては疑いの余地もなく全くその通りであって、それ以外のなにものでもない。たとえそれが後にどうやら間違っていたとわかったところで、それは微塵にも揺らぐこともない。さらにその新しい発見や知見を受け入れるかどうかもまったくもってあなた次第だ。かつてそれが真実だと受け入れたときと同じようにね。そうやってあなたはずっとアップデートされて、書き換えられているわけだよ。