愛と面倒事
面倒
できれば独り好き勝手に暮らしたいと思っている。その一方で、あなたの親族や友人、恋人など愛する人と仲良く一緒に暮らしたいね。もちろんそれは愛するがゆえにそうしたいわけだけれども、時々あなたのやりたいこととそうでないことがシンクロしないことが起こる。そこであなたは多少イライラするわけだけれども、愛する人であるが故に、仕方がないとなんとか溜飲を下げようとしている。もちろんそれがその通りにスッキリと解消すれば何ら問題はないのだけれども、それが後々になってそれらの亡霊があるきっかけにおいて爆発してしまうと、大事件が起こるわけだね。もう我慢の限界だとか、堪忍袋の緒が切れたとかそういう表現がピッタリなのは、おそらく古来からずっとそういうことが日常で起こっていた証拠でもあるね。
愛という言い訳
たまたまやりたいことが、愛すべき人たちに理解され、応援されるのであればそんな事件は起こらないはずだ。ところが、あなたを愛するというベクトルがズレていることが原因で、あなたがやりたいことと必ずしも一致しない。おそらくぴったり合致することの方が稀で、これまでを振り返ってみても数えるぐらいしかない。ほとんどは、そうではなく、あなたもその思いを必死に受け止めてなんとか受け入れて自らのやってみたいことを封印している。もはやそうだろうと先回りして、ふと何かがやりたいと思ったところで、それは無理な話だと誰に聞くこともなく、話してみることさえせず、ほとんどのやってみたいことを諦める癖がついていく。それも悲しいことに「愛されている」という言う名のもとにそうする。それでなんとかその思いを閉じ込めているんだけれども、どんどんその閉じ込め部屋が満杯になって今にも溢れそうになっている。
愛してるのは誰
そこで根本的な間違いをあなたはしている。あなたがやりたいことを我慢しているのは愛する人のためだと思いこんでいることだ。実はそうではなく、あなたがそれを封じ込めているのは実はあなた自身のためであるということだね。だから誰がなんと言ってもやりたいことをやってみると初めて分かるだろうけれども、それがそれまで愛すべき人を心配させないためという言い訳は、愛すべき人に言っていたわけではなく、実はあなた自身に向けられたものだということだ。逆に面倒なことをいつも頼んでくる愛すべき人は、あなたがそうしたいからわざわざそうやってくれていることもわかる。あなたが彼らを支えることは、実はあなた自身を支えることと同じことだね。それがわかると面倒事だと忌み嫌っていたそれらは、実は愛すべき人と同じだと知ることになる。ほら、それを知るだけで自然に笑みがこぼれてしまうはずだよ。