当たり前

日々

ありがとう

「ありがとう」の反対語は「当たり前」だってね。そんな事ぐらい知っているよと言うだろう。けれどもいつも「ありがとう」の連続だということに気がついている人は実は少ない。ほとんどの人はいつもの暮らしから見える風景をぼんやりとしか見ていなくて、いわばいつもと同じ「当たり前」のことと処理してしまっている。「当たり前」の語源はいくつかあるようだけれども、基本的にはあなたが受け取るべき「分前」であって、それは過剰でもなく不足でもない。いわば「当たり前」のものを受け取っているという感覚を表現する言葉であることはおおよそ同意してもらえるだろう。なんとなくそれを日常と一括りにして、退屈で代わり映えのない毎日という意味から大きく飛躍して、幸せでも不幸でもないことがやっぱり不幸だというふうに翻訳されて、独り歩きを始めてしまうのはどうしてだろうね。

縁の下の力持ち

イツメンとか呼ばれる、いつもあなたのそばにずっといて、あなたのフォローをしてくれる人たちが何人かはいる。けれどもそれもいつも風景に溶けてしまってあなたにとっては「当たり前」過ぎる存在と化してしまっている。だから、そろそろニューフェイスが欲しいとか、イツメンばっかりしかないなんてショボい人生だと嘆きはじめてしまう。もちろんそこから脱却するためにあの手この手を打ったとしても、「当たり前」のようにうまく行かない。そこであなたは「うまく行かない」のが「当たり前」だと思い込むわけだ。実はイツメンがずっとそばにいてくれているというのに、完全に見失っている。足元がどうなっているかもわからないのに、遠くに駆け出そうとしても首尾よく動けないのは、もはやそれも「当たり前」だと知っているはずだ。

焦点

近くはぼやけて見えない。だかと言って遠くがしっかり見えるというわけでもない。でもどちらもぼんやりした視界であってもあなたは遠くのぼんやりしたそれから、いつもそれが向かうべき世界だと勘違いしている。あなたの理想や幸せは近くには見つからないという思い込みから、どうしてもそうなってしまう傾向にあるね。さらに遠くの景色もはっきりと見えないから、それをはっきりと見ることができるツールが必要だと不足を感じている。お金、地位、名声なんかが未来を明るく照らし出し、今はぼんやりとしか見えない遠くを明確にできると信じている。そうやって夢をみているあなたを今ここで支えてくれている一番大切なイツメンには目もくれずね。さて、その念願が叶うための条件は、果たしてそれで大丈夫かな。もうわかったね。あなたのいつもの「当たり前」は「当たり前」ではなかったことに気がついたならね。