やばいのはあなた
学び
昨今では主体的に学ぶ力が求められている。にもかかわらず相変わらずの一斉授業が未だに実施されているところが少なくない。もちろん、画一的な知識を得る場としてはかつては効率的なシステムだったのは間違いない。ところが最近ではそのレベル設定を中央値でやれなくなっている。その理由としては、基礎学力がきれいなベルカーブではなく、フタコブラクダ型になって格差が広がっているからと考えられている。所得も学力も格差社会になるのは必然の流れのようだ。中央値のレベルが余裕でわかるグループと、それがちんぷんかんぷんなそもそも興味のない層とで2分しているらしい。いわば少数の層に向けたマス授業では誰もが不幸になってしまうのは明白だね。かと言って一斉授業の形でその両方を充足させる手段はとれないわけだ。これでは教員人気もなくなっていくのは仕方がないね。
基礎学力
教育評論家が言うのもポジショントークで、だからといってこれからの社会では基礎的な知識は全く不要かといえばそれは極論すぎる。もちろん、答えが用意されている問題で、ただ入試を勝ち抜くためだけに選択肢の中で正解を探し出すなんていうスキルを磨くことは、今後はあまり自慢できるものではなくなるのはすでにわかっている。そんなお膳立てされている問題など社会に出た瞬間にないことに気がつくからだ。なら、答えのない問題に立ち向かうためには全くの基礎体力がないままに十分に戦えるのかといえば、なくても必然的に習得していくだろうけれども、少しはあったほうがいい。だから極論は刺激的な人気を狙った戦術ではあるけれども、実際的な解はその中間ぐらいにあることが多い。その意味では少しの小テストはあってもいいわけだ。
やばい大人
ほんの少しずつ自らで問いを立て、答えのない問題にチャレンジする機会を設けることが必要だということがわかる。すべてでなくてもいいから、仮説を立て、それをプレゼンし、多くの賛同が得られるように納得性を高めていく。それによって、論理的思考、批判的思考、俯瞰的な理解、客観的な視点を持つことができる。これからの若者はそうやって生きざるを得ないわけだからそれほど心配しなくてもいい。問題なのはテストの点数一本槍でしこまれてきた年配層の方だろう。今更学びなさいとかリスキングとか言われても実は途方にくれている。すぐに教材や授業に答えを求めてしまう。それが証拠に子どもたちの教育問題一つ改善できないのは、所与の選択肢に必ず正解があるという癖から脱却できないでいる。さらに情けないことに自らの欠点を補うための俯瞰的な分析すらままならないことだ。あなたの欠点はあなたの武器でもあることにすら気が付かないままにね。