社会の幸せという幻想
新・幸福論
幸せとはあくまでもあなたが感じる唯一のものであって、個人的・主観的な価値観からしか導き出せないものだ。社会の幸せとかみんなの幸せなんて耳障りの良い言葉で民衆を騙す政治家がいるように、そう語りかけることでそれぞれは自分勝手な幸せを思い浮かべる。けれども、それは互いに全く重なり合うのなら問題は起こらない。ところが少しのズレが大きなうねりとなって結局幸福の総和が上昇するなんていう理屈をいくら積み上げたところで、そうでもない人が少なくない数取り残されてしまう。大局的なみんな幸せとは究極のところ、余白がどれだけ残されているかということであり、その差異をどこまでだったら許容できるかという問題に帰結する。例えばあなたは所得が増えることを唯一無二の幸せだと感じるとしても、それも社会的に与えられた幸せの形の一部であって、必ずしもそれがすべての豊かさにつながるかというとそうでもなかったりする。
総和
かつての社会学者や道徳学者は、幸福度をある尺度で表すことができ、その前提として共感という掴みどころがない感情を一つの指標にして理論体系として構築しようとした。そのための前提条件としては皆が同じような価値観を持ち、文化的な関心を持ち、教養をもつことが必須だね。野蛮人や未開人というくくりで、それを原始的な社会と定義し、そうではない文明社会を良しとした。その中での幸せの総和を向上させるのがあらゆる政策の羅針盤にしてきたわけだ。いわばとても狭隘な価値観に多くの民衆を閉じ込めて、集団生活をする上であまりに自由度や余白を大きくとるとトラブルが増えることを知りつつ、そうではなく画一的な価値観に揃えることで統治することが多くの命と暮らしを守るという結論は現代に至るまで脈々と受け継がれている。
神も仏もない
そこで不文律な文化や風習を明文化したルールにするために、様々な宗教が発明されたわけだ。それはその当時は画期的な発明であり、多くの人をその価値観に閉じ込めることで社会的安寧をはかってきたわけだ。さらに、帝国主義やその上に成立する資本主義社会が生まれ、その不満を解消する手段として民主主義と自由を生み出した。資本主義と科学的思考はとても相性がよく、それ以外はまやかしと思われ始めた。かつての神や仏はそれ自体で価値観を揃えるのに大いに貢献したわけだけれども、それも時代の流れとともに、現代では科学信仰一色へと変化したのは知っての通りだね。エビデンス主義や論理的帰結が何よりも大切になり、資本主義においての幸せの終着点としては地位や財産、名誉という資産が第一となった。その中で世界を変えるとすればそこから脱却できる力がないと不可能なんだけれども、それも見越して徹底的にその力は幼少期から排除するように教育されている。そのほうが先に定義した社会的幸福が安定するからだ。だからまずはそこに気づくかどうかがあなたの世界を変える第一歩でもあるわけだね。