あくまでも仮説

日々

確定と未確定

大抵の議論で平行線を辿ったり、炎上したりする原因としては、それぞれ確定した何かを主張しあっているからだ。そもそも何が起こるか、どうなるかさえわからないのがこの世なのに議論や主張のときだけは、確固たる論拠があるという前提で進められる。もちろんディベートの練習ではあなたの意とは関係なく、極論の2対にしてランダムにどちらかの陣営として参戦させられるのだけれども、練習でもないところで何もあなたの意に介さない主張をしても仕方がないね。また、その確定事項の主張は、あくまでも大きな潮流から見るとあくまでも仮説段階でしかなく、そういう意味ではあなたが信じて疑わないことも絶対ではない。どちらかというと脆くも儚い拠り所であることも薄々は感じているだろう。だから逆に言えば余計にムキになる。そうなるからこそ馬脚を現すことになるわけだ。

論破

誰かが何かを論破することを傍で見ていて快感を感じる人が多いらしい。おそらく、確定要因を信じてやまない教にでも入信していないとそんな快感は得られないね。こっちのほうが、あなたのほうが正しいと言いたいという欲望が普段からふつふつと湧いているんだけれども、実際の生活の中では不合理で理不尽なことを無理やり飲み込んで生きている。その反動と身代わり、敵討ちをやってくれたという喜びがそこにあるのだろう。けれども、敵討ちは連鎖するのを知っているように、確定したそれはあくまでも途中の仮説でしかなく、現状ではそうであるのではないか、という実は弱々しいものでしかない。明日になればまるごとひっくり返る可能性もあるわけだし、それが証拠にあなたは確定的ななにかを得ようと思う反面、予想外のことばかりが起こる毎日でビクビクして過ごしているね。

転嫁

こっちのほうが正しいとか、そっちは明らかに間違っているとか、そういうものの客観的な絶対性はない。科学で言うエビデンスと呼ばれるものや、最近のSNSで盛んなファクトチェックなんかも、恐ろしく流動的なもので、現代の常識は未来の非常識になるからこそ、時代は常に進化してきたわけだ。現代のあなたは、過去の宗教的、土着的な生贄なんて信じられないだろうし、理解なんかできるわけもない。単なる大きな樹木や特徴的な岩に神様が宿っていると真剣に思っていた人々の思考回路なんて、どれだけ理解しようとしてもおそらくは無理だろう。逆にその当時の人々が現代のあなたの主張や価値観や暮らしぶりを見ても同じように驚き、嘆き、悲しむことばかりだろう。だから議論を楽しんだり、色んな人の意見を受け入れてあなたの糧にするには、あくまでも今そう思っているだけ、という本質を忘れないようにすればいい。議論は苦しみではなく生きる醍醐味の一つなんだから、大いに楽しめるといいね。