エビデンスが必要な不幸

日々

ここにいるよ

いまとても苦しいんだとか、今とても悩んでいるんだとか、その一方で、今はとっても幸せだとか、今はとっても楽しいだとかも、根っこは同じだね。あなたがここにいるよ、ということを誰かに認めてもらいたいという欲望がそこにある。だから、苦しんだり、楽しんだり、喜んだり、悲しんだりすることは、あなたがここにいるよと大声で叫んでいるのと同じこと。できればあなたは幸せだったり楽しさだったりに満ち溢れた人生を歩みたいと願っている。それ自体はどうでもいいことに過ぎないことだ。その根っこは悲劇のヒロインだったり、幸せいっぱいの主人公だったりするだけで、根っこはいつもあなたは「ここにいるよ」ということを認めてもらいたいという一心でそれを自ら出現させているわけだからね。

根拠

現代的にはエビデンス主義であり、それが科学至上主義の根幹をなす一種の信仰でもある。幸せだというにはそれなりの理由が必要だと思いこんでいるし、逆に不幸だと主張するのならば誰よりも不幸であることを理由をもって説明できないと相手にされない。それを知ってあなたは、いかにあなたが誰よりも不幸であるかの理由をずっと探しているわけだ。その理由が見つかるたびに喜んでそれらを根拠として提示し始める。よく考えてみればおかしな話だ。不幸の理由を不幸の証明のために必死になって探し回って、見つかったらほら見たことかと少し喜んでいる。まるで、不幸であることがあなたの生きがいかのようにね。逆に幸せだというのであれば、誰よりも幸せだという理由を探し回ることになる。お金持ちだとか、恋人がいい人だとか、家族があなたを愛してるとかね。そうして、それもそら見たことかと自慢気に語るあなたがそこにいる。でもそれは真の幸せではないことにも気がついているね。

無意味

そうして理由が必要な人たちは、その理由がなくなった途端に困ってしまうことになる。あなたの主張の拠り所がなくなってどうしていいかわからなくなってしまうからね。その一方で、理由なんて探すまでもなく、無条件にただ単に幸せな人は、ずっと幸せでいられるね。誰かに説明することはできないけれども、理由なんて関係なく幸せだと感じているのならば、他人や承認欲求などどうでもいいことになる。本人が幸せだと思えば幸せであり続けるし、逆になんとく不幸せだなと思えば不幸せと感じる。でも不幸せだと感じ続けるのはその場合実は難しいことに気がつくだろうか。幸せとは違って、不安や不幸せは、誰かに説明がついて成立するものだからだ。だれにも認められない不幸せを感じ続けるのは不可能に近いのはそういうことだね。どれだけ不幸自慢ができるかでしか不幸を維持することはできない。けれども幸せはもはや誰かに説明する必要なんてないわけだからね。説明しないといけない幸せなんて、幸せでもなんでもないことをあなたはすでに知っているようにね。