過剰な幸福
収入
お金はいくらあっても邪魔にはならないと思っている。だから将来の夢はお金持ちという子どもたちもいるね。資本主義社会ではお金はある意味セーフティネットだ。たとえ人付き合いが下手くそでも、知り合いや友達がうまくつくれなかったとしてもほとんど全てはお金さえあればそれを補完してくれるからね。ものやサービスを手に入れるにはいろんな方法がある。一番最初に思いつくのは、それを販売しているお店に行って買うことだ。そこであなたはそれを手に入れるだけのお金の余裕がないと嘆いている。それ以外にも、ネットで探してできるだけ安く手に入れるという手も今では普通だね。ずっと値段とにらめっこの人生となる。もし中古でもいいならば、メルカリやセカストに探しに行くだろう。それも予算との調整となる。さらに今では一時的にしか使わないのならば借りたりとか、余っている友達からもらったりすることもできる。けれどもその選択肢を選べる人は人付き合いが上手な人に限られてしまうし、さらに不思議なことになんとなくそんなことをしてはいけないと思いこんでいる。なんとなく、迷惑をかけてはいけないという考えが捻じ曲がってそうさせているのかもしれないね。
物にあふれる
実際にはどんどん貧乏になっている。賃金は一向に上がらず、ものはどんどん高くなり、社会的扶助の負担が大きくなっている。これまで気軽に買えたものもどんどん手に入れにくくなっている。そこで、余っているところやもう使わなくなったものに人気が出始めているね。よく考えてみればそれだけものが循環するぐらい有り余っている豊かな社会とも言える。お金だけが循環している社会から、今度はものやサービスが循環するようになってきている。現代ではそれをシェアリングエコノミーと呼び始めている。一方で旧来の新製品をお金でできるだけ高く、多くの人に買ってもらう前提の社会は苦しくなり始めている。今はまだ旧来の価値観で消費してくれる高齢者がまだ残っているからギリギリそれが保たれている。けれども、今の若者世代はお金がない分、豊かな社会で生き残る術をどんどん洗練させているね。さて、あなたの商売は旧来の価値観でいつまで続くだろう。
物々交換
単にもらうばかりだとなぜか心苦しくなってしまうのは、豊かさや幸せの対価が労働によって提供した貨幣の量だと教えられてきたからだね。そう、苦労もせずに幸せになってはいけないという暗黙のルールがなぜかそこに横たわっている。さらに特別にグータラ生活をしているわけでもないのに、余剰のお金がないことに劣等感をもっているからだ。でもそうやって高収入を得たとしても、やることはとても虚しく、せいぜい滅多に着ない服や、偶にしか乗らない高級車や、広すぎて冷暖房費や清掃などのコストがかかる無駄に広い部屋を手に入れるぐらいだね。それがこれまでは人も羨むような幸せだったのは事実だ。ところが、仮に世界中に何件も別荘を持ったとしても、あなたがそこに行ける回数や日数はたかが知れている。そう、もはや過剰すぎてそれを管理するほうが大変になってしまっているね。ならどれくらいのお金があれば満足できるのか。それはその人の特性にもよるだろう。けれどもそんなびっくりするぐらいの金額にはならないかもしれない。とにかくお金があってものに溢れた生活は、これまでと違ってそんなに幸せな人生とは言えなくなりつつあることだけは知っておこう。本当の幸せはそんなところにはないんだね。