幸せは永遠に続く

日々

末法思想

かつての日本で席巻した一つの思想で、末法思想がある。仏教の歴史観の一つだけれども、現代的に乱暴に翻訳すれば、なにもかも形骸化してしまって本来の世界がすべて上っ面になってしまう危機感とも言える。でも、あなたはそれすらも超えられる力をすでに兼ね備えていることに気がついている。それは今にいるかどうか、それにかかっているね。そんな将来のことをあれこれと考えたところで、おかしなことで仏教の刹那という主たる思想から時を経て随分変わってしまっているとも言えるね。その本質をとらえているのならば、末法思想そのものがそもそもの教えとそぐわないものだと看破できるだろう。人の欲望というのは際限なく広がっていく。どれだけ注意深く過ごしていても、いつの間にか正しさに完璧を求めるようになってしまう。その正しさ自体が幻想だということすら、十分承知していたはずなのにいつの間にか忘れてしまって、まさに今を見失ってしまうわけだね。

間違いの影

正しさなんてものは、迷いの元でしかない。なぜなら今がそのまんまで正しさだということをすっかり見失ってしまっているからだね。おそらくその修業や探求はすべてが今にあるわけではなく、今の辛苦の先にしかないと思いこんでいるからだね。それこそ大きな間違いであって、それすら気がつかなくなる癖があるからこそ、先達の教えはくれぐれも注意しなさいと問いている。教えはいつの間にか完璧な正しさと化けて、残念ながらその本質が書き換えられてしまうわけだ。便利さこそが正義だとか、楽なことが正義だとか、そういうふうにすり替わってしまうことで、それ以外の無駄や苦労が悪となる。いわば逆転してしまうわけだね。愛おしさや切なさを感じるためには、あなたも含めて不完全な存在であり、完璧ではないからこそのものだ。今を楽しむことができるのも、今が不完全で間違いだらけだからこそだということが本質だね。

永遠の幸せ

だからこそ、今が幸せだと本質的に体感しているのならば、あなたはこれからも永遠に幸せだと確信を得られるわけだ。何気ないお店で、いつもと変わらぬコーヒーとパンケーキを食べている。それが全てであり、それを今楽しんでいるのならば、この世の終わりなんて絶対来ないと気がつくだろう。だって、あなたは今が無条件に楽しいのだからね。そんなことして何になるという人々は、誰一人今にいない。もっと言えばどこにもいない。一方であなたは、パンケーキを頬張って苦いコーヒーを飲み、至極のひとときを過ごしている。もう、それが永遠でないとしたら、何が永遠なのか。未来の幸せのために今を犠牲にするという考え方が、とても滑稽に思えるはずだ。なぜなら永遠は今にしかないのだからね。これは言葉で説明してもおそらく今にいない人には全く通じないだろう。言葉にならないのが今であり、永遠なんだからね。