異次元

日々

不機嫌の種

いつも一緒にいるとなぜかイライラして喧嘩ばかりしている。相手の言う事なす事が全部気に入らないし、そればかりを見つめてしまっている。SNSを開いてみれば、誰かの意見に何かと文句や揚げ足ばかりのようだ。けれどもそれらを指摘して、それで憂さ晴らしができているだろうか。気分がスッキリするならばそれも悪くはないかもしれない。けれどもどうやら見ている限りにおいては、その批判で幸せそうにしている人は皆無だね。難癖をつけて喧嘩を売ることばかりしていると、どんどん世界が灰色になって増幅してしまって、もうどうにもこうにもいかなくなっている様子がずっと流れ続けている。呪詛はどんどん大きくなってしまって、もはやあなた自身がどうこうするレベルを超えてしまっているわけだ。それと同時にその世界から離れることすらできないようになってしまうね。

同じ土俵

幼い子どもたちが、たとえば間違ったことをしでかしても、突拍子もないことを言い始めてもあなたは黙って静かにいられる。それはあなたはその次元に降りていないからだね。子どもたちは間違って当然だという認識だし、その間違いを繰り返しながら大きく成長するさまを微笑んでみていられる。この違いは同じ土俵にいないからだ。ということは、文句をずっと言い続けなければならない世界とは、同時にあなたもその次元にいるからということになる。罵詈雑言を浴びせられっぱなしの世界にわざわざ足を踏み込んで、同じように反論しているようなものだ。そういう次元から一歩離れてしまえば、なんてことのない平和で静かな世界がそこに広がっている。あえてそこに降り立つ意味は何か。そこにあなたのアイデンティティを求めているからに過ぎない。もうすでにわかっているだろうけれども、そこにあなたは必要ないというのにね。

正義は過去

正しいと思うことを主張すること自体が間違いだと言っているわけではない。けれども、その正しさは永遠の今ではなく、過去か未来に対して向けられたものでしかないことに注意しよう。これまでの経験や体験、教えられてきた何かによって構成されているに過ぎず、今の正義からはかけ離れてしまっている。なら今の正義とは何か。それはありのままの変化を眺めていることであり、その変化を肌で感じることそのものだね。誰かの発言に違和感をもってあなたは怒りという感情を抱いた時、それは、あなたの今の衝動ではなく、過去のデータをもとにしてあなたがわざわざ生み出したものでしかない。要するに全く持って今にはなく、そういう意味ではどこから借りてきた何かでしかない。今ここにいるのは、それをするためにいるわけではないね。そう、その怒りは今のものではないからそれだけを注意深く見つめ直す癖を身につければそれでいいだけなんだよ。それだけであれほどの喧騒から離れられて静かな今のすべてを感じ取ることができるわけだ。