慎重かつ大胆

日々

未来地図

ずっと生きているうちに、ある程度の予測がつくだろう。こうなればこれがやってくる、とか、いつかのあれが原因で徐々にこうなってくるだろう、とかね。そうやってある程度未来が見えてくるように思えるとどうなるか。実は2つのパターンに分かれるね。一つはそれで安心することができるということ。もちろんすべてがわかるわけではないけれども、おおよその見当がつくことでそれに前もって備えることもできる。もちろんほとんどが杞憂に終わることが多いけれども、何もすることができないよりは対策を講じること自体で不安な時間が少なくなるね。他方は、そんな見立てにおびえてしまってさらに人生の闇が深くなってしまうパターンだ。知れば知るほどあらゆる選択肢が思いついてしまって、もうどれをどうすればいいのかすらわからなくなってしまう。もはや何も知らないほうが良かったと思えるぐらいにね。

どうしようもない

そうやって、どっちのタイプにしてもある程度の予測を立てる癖がついているけれども、知らないより知っている方がいいと思うのか、それとも牧歌的に構えるほうがいいのだろうか。それは生まれついた性格にもよるけれども、おおよそ未来に怯えるタイプは、その前提条件に安心を強く求めすぎている傾向にはあるね。とにかくずっと無事でできれば快適に人生を過ごすべきだとも思っている。一方で多少の困難はこれまでもあったことだろうし、もうどうしようもないことが起きたら起きたで、それも運命だと楽しめるタイプも存在するようだ。心配性なあなたはそういう生き様に強く憧れつつも、それでもやっぱりあなたは安心の方を強く求めてやまない。危機回避という本能としてはそのほうが優れているし、生物の使命としてなんとかして生き延びるという生存本能としては全く持って正しい姿だとも言えるね。

慎重と大胆

心配性なのか牧歌的なのか、慎重なのか大胆なのか、そうやって対比されることが多いこれらの二つの概念は、根底には同じ生き延びるという戦略が横たわっている。いずれを選択するにせよ、それが全く維持できない戦略であるならばどちらも無意味なものとなってしまうからね。ということは、どちらのパターンであっても要するに今を生き残るという戦略であり、いかに無事にいられるかどうかということがメインテーマだ。後先を顧みない傍若無人な冒険家はすぐにいなくなってしまうということが確定しているのならば、必然的にどんどんそんな無謀なことをやることがなくなっていくだろう。一見大胆に思えるそれも、実は慎重で繊細で周到な計画が練りに練られた上でのことであったりもする。一見臆病者に見える危険回避の戦略もまた、これまでの知見がすべて詰まっているクレバーなものだろう。どちらの戦略も高次元でバランスしていて、見かけと違ってその本質はまさに生命活動そのものとも言えるわけだね。