カッチカチやで
誰のものでもない
遠い昔、もともと地球や宇宙は誰のものでもなかった(はず)。ところが、誰のものでもないからこそ、各々が自分のものと高らかに言える可能性を秘めていた。今のように文字ですべてに名前を書いて主張していないからね。ある意味みんなのものしかない。みんなって誰ってなるけど、まるっと全体といえばいいのかな。しばらくして言葉と文字を発明した。はじめはおしゃべりしかできなかったから、ずっと俺のものって叫ぶしかなかったんだけれど、文字という記号ができることで記録することができるようになる。そうして社会ができて国境ができて、それらを管理する役割が生まれたわけ。ここでも記録できる文字は大活躍。いつのまにか大地に値段がついて、誰かのものといつも叫ばなくても主張する方法ができて、誰かのもので埋め尽くされると足りなくなってきたりしている。それを人類は価値と名付けたんだね。
言葉と文字とものさし
価値というものさしができると、より価値が高いものを集めたくなる。そういうゲームが始まる。たぶん始めた人は、それが楽しそうだと思ったのかな。よりよい未来と幸せを価値の高さに見出すことができる特殊能力を持った。本当は価値なんてどこにもなくて、ただただ大自然からできた何かが広がっているんだけれど、そこに物語を見出すなんてステキな力なのかもしれない。つまらない毎日をそうやってゲームに変えられたのは、もともとは価値なんて存在しないってこと。だからこそ、価値が高い方が勝ち、それが「至上の幸せなんだゲーム」を楽しめる。その価値にのっかって、そのゲームに参加し始める。ものさしは両端がないと測れない。でも、そもそも言葉は対になっているから、まずは言葉と文字の習得がゲームの参加資格となった。
言葉を紡いで物語ができる
もちろんゲームには設定がないとね。世の中ゲームの発端はすべて作り話から始まっている。その中でよりよい価値を求めることがよりよく生きることっていう約束にしよう。少なくともその作り話を信じることから世の中ゲームは始まるわけね。価値を決めるルールを決めないとね。でもそれは時代背景によってくるくる変わるのは仕方がないこと。でもひとたび価値というものさしができたら、あとはそれぞれが「これからはこれが価値が高い」と高らかに宣伝することができるようになる。文字と言葉があるからこそだね。あとはどれだけの人にその設定を認めてもらえるかに躍起になる。ものさしを沢山の人に使わせたものが価値が高くて勝ちってわけ。
物語を作り変える
もともとは単なる作り話から始めった価値価値ゲーム。そうだと見抜いたら、その物語の設定を少し変えてみたらいい。ちょっと自分にはこれは辛いなと感じるぐらいなら、楽しくなる方向に書き換えてしまえばいい。物語の中にすっぽりと浸かってしまうとそのことすら気づかない。もちろん作り話でありながら、そうヤスヤスと勝手に書き換えられないように仕掛けがしてあるけれど、それも作り話の一端でしかないことも見抜けるだろう。人生は個々に流れているように見えるのも単なる設定にすぎない。今も昔も地球も宇宙も誰のものにもなっていないから。言葉と文字でできたメモリがカチカチと動いているだけだからね。ん?あなたとは価値観が合わないって?だから価値は見る人の数だけ生まれるものなのよ。もともとないものなんだから。