区切りが見えません

色々

国境を超えて

「グローバリズム」とか言われて久しいね。国の境界線を超えて、世界は一つ、人類は皆兄弟。世界中で優位性のある特色を生かしてそれぞれが利を得る活動をする時代になった。とはいえ、情報産業はアメリカにかなり集中しているけれどね。今はどうだろうか。グローバリズムはちょっと人気がなくなってきて、民族主義とかに反動で偏っているのかな。昨今の渦中の問題で外国産のマスクが手に入らないなど顕在化して、グローバリズムの弱点にちょっと気づいた人も多かったかな。

グローバルマーケティング

多くの人に気に入られることで成果があがる商売。これをマーケティングとか言ったりしている。商売の原理原則として今でも君臨しているのではないかな。対人というか人のご機嫌伺いというか、そういう人気商売に大きく偏っているんではないかな。「いいね」の数を競い合っているのも、「フォロワー数」を競い合っているのも、その先にいるよく知らない人の気持ちを動かそうとする活動だね。再生回数で競う人気YouTuberが若い人の憧れる商売というのは、昔、国内TVのアイドルや歌手になりたいっていっていたのと同じ構造なのかもしれない。今では、より多くの人に気に入ってもらうには、国を超えて世界の人を相手にしないと成り立たない。そういう時代になると言われてきたよね。

時代の区切り

でもいつからこうなったのかと問われると、定義は学者によってまちまちになる。歴史は振り返ることでしか整理できないからね。先読みして当たる確率は宝くじにでも当たるぐらいのそれと同じかもしれない。とにかく今の流れとしては、そうはいってもグローバリズムであり、相変わらず世界の人々を相手に、ご機嫌伺いの人気獲得競争という状態を引きずっている段階かな。一方で、その影響を受けていないのは旧来の伝統を受け継ぐ職人とか経済合理化されていない産業かな。皮肉なことに人におもねることのない、国内では斜陽産業と言われている分野が、国外から再び注目されていたりもするね。ある意味グローバリズムの影響とこれも言えるかな。とすれば、あまねく産業に何かしらの変化をもたらしているかもね。まぁ、どんなことでさえ、光と影が同居するのね。

認識と行動

結局、そうやって分類したり線を引いたり、区切ったりくっつけたりしないと「これまでの」情勢を説明できない。今はどうなの?と問われ説明しようとしても、なにせ途中経過にはめっぽう弱い。なりつつある進行形を語るには、実は言葉はいまいちというか、不十分な道具なのね。過去を整理するのは言葉は得意。そもそも文字で固定化して記録できるから便利だよね。その作業を緻密にすることで過去への認識は深まるかもしれないけれど、じゃぁこれからのとか、今からの対処行動、方策は過去の認識の深まりとは逆におぼつかない。いわゆる頭でっかちになれるけど、今やっていることは相変わらずってやつだ。歴史に学べないのが真実かもね。行動を見ればすべてがわかると言われるのは、行動は認識と違って、動物のそれと何ら変わってないから。時代は進んで認識は高度化、情報やモノやサービスもどこでも、だれでも手が届くようになった。でも対応策を見ていると過去とそれほど変わらない。そう、大きく分けていつの時代も「攻撃」と「防御」しかない。

はやく区切ってよ

実はそもそも区切り線がないからこそ、そこを誰かに決めてもらっているだけ。地図があるから国境があるけれど、それもよく見てみるとその区切りでいまだに揉めている。固有の領土というときも「歴史的」な背景を根拠にして境界線の引き合いをしている。今日からグローバリズムの始まりですとか、今夜午前0時に解除ですとか、誰かに区切ってもらうのを皆心待ちにしているし、区切ってもらうことで自由になれる。

にらめっこして笑うとダメよと言われて必死に笑いをこらえている状態と同じだね。もう笑ってもいいよって誰かはやく言ってよ。もう我慢出来ないよ。あはは。あら、笑っちゃった。ところでその勝負は誰の勝ち?負け?