迷惑の真実

日々

目一杯

毎日を全力で楽しめばいいだけだと言われても、ほとんどの人はそれがどれくらい楽しめばいいのかわからないだろう。なんとなく際限がないように思っているし、楽しむということとは、イコールお金がたくさんかかることばっかり思いついてしまって、その時点で無理ゲーだと諦めてしまうね。これには二つの誤解があって、まずは全力で楽しむという概念がなにかとてつもない努力とエネルギーを注入しなければ実現できないと思いこんでいることと、楽しむにはそれこそ莫大な富や財産が必要だと想いこんでいることだ。目一杯楽しむということはあなたにとってはそんな架空でどうしようもない間違った認識のままだから、そりゃ一生かけても実現不可能なことに成り下がっているわけだ。さて、あなたはそれが正しいと思い込んでしまった原因を解きほぐすことができるだろうか。もっと言えばそれが仮にできたとして、あなたは心から幸せを感じている姿を想像できるだろうか。

寝て暮らす

よく使われる比喩に、貧乏な老人に、あなたはなぜそれほどまでに心を傷つけてまでがむしゃらに働くのかと問われたら、あなたはこう答える。それは早く好きなことをのんびりとしながら暮らしたいからだとね。そうすると貧しい老人は、そんなことしないでも今私の暮らしはそうなっているよ答える。あなたは富や財産がないとのんびり過ごせないと思っているし、ましてや各国に別荘やお金の心配のない世界を構築できないと思い込んでいるわけだ。生きるためにお金が必要なのは資本主義だからそうなっているけれども、そこから少しだけ距離を置くことができれば思っているほどたくさんは必要ない。それもあなたが一人で誰にも頼ることなく暮らすことが前提だからそれしか方法がなくなっている。誰にも交わらないためにあなたはこの世に生まれてきたかのように洗脳されてしまっているからなんだけれどもね。

集団の中の孤独

これほど多くの人と交わりながら暮らしが成り立っているというのに、あなた個人は貨幣でしかそれを享受できない仕組みになっている。そうしたほうが社会が円滑に回るからだけれども、あまりにそれに特化することが立身出世だと置き換えられてしまったわけだ。困ったときはお互いさまなんだから、少しぐらい相互扶助という仕組みも残さないとあまりに社会がギスギスしてしまう。だから実は自由主義で個人主義だと吹き込まれているんだけれども、実は救済策も用意されているのが現実社会だ。もちろんそんな甘えた奴らは許せないと思ってしまうのは、あなたが自己責任の呪縛の洗脳に染まりすぎているからに他ならない。どうしても困ったならば、助けてもらっていいし、近しい中であればそんなに遠慮はいらないはずだね。でもそれがこじれて悲しい事件があるのを見ると、やっぱり誰にも迷惑をかけないようにしようと頑張りすぎてしまう。迷惑なんて言葉を紐解いてみるといいけれども、そもそも迷惑にはどうしていいかわからないという意味でしかなかった。でもいつの間にかそこに利害と被害の意味が現代の社会から意図的に追加されてしまった言葉なんだ。