言葉にできない体験

日々

体験

あなたが体験したことを言葉化すると、文字にするために知識がフル動員されてしまう。そうするとその過程において実は全く別物になってしまうことが多い。だから、あんまり体験を記録しようと言葉にしないでそのままにしたほうがいい。少なくとも体験したあなたにはそれがすべてわかっているわけだし、それをあなたの善意からおすそ分けしようと誰でも理解できる文字で表現しようと格闘するわけだけれども、近似値に近づいたとしても100%伝えられることはない。だから、とにかく文字情報は体験することを推奨し導くところまでにしておいて、あとはそれぞれにそうなったときの体験に任せたほうがいいね。すべての明文化した教えなんかも、いまいちピンとこないものが多いのも、そういう理由だね。とにかく体験を知識に変えてしまうと、あなたもびっくりするぐらいの乖離がそこに生まれてしまうのはそういうことだ。

言葉化

もちろん、言葉はあらゆる伝達手段の中では、かなり優秀なツールであることは間違いないね。そのおかげで時を超えて追体験ができることもあるわけだ。ところがその一方でモヤモヤする部分が残るのは、完全にあなたの体験が先人のそれなのかどうかは確かめるすべがない。そこで少しこれでいいのかと不安になるだろうけれども、実はそれで全く問題はないね。仮に同じ体験ではなかったとしても、あなたがそれをそうしたいと思って体験したわけだから、あなただけの体験がそこにある。よく考えてみれば体験なんていう言葉の本質自体が、誰かと同じ経験をすることなんていう意味は全くない。それだけ体験とは主観的でありあなただけしかできない限られたものであるわけだ。だから例えば世界の幸せとか、誰もが充足する社会とかという言葉を発する政治家がどこか胡散臭いと本能的に見破ることができるのも、実はそれを一番あなたがまさに体験から導き出しているからだね。

マウント

そもそも個人的、主観的な体験を他人と比べて優劣を決めようとしている人がいる。幸せも不幸も客観的に決めることなんてできないはずなのに、あなたや誰かの基準を正しいものと断定して、例外は認めないなんていう考えはかなり傲慢なものだ。けれども、実は今世界でやろうとしていることはそういうことでしかない。権利や健康や平和や安心は誰にとっても良いものだと決めつけている。もちろんそれはそうかもしれない。けれども、その具体的な事例はかなりの違いがそこにある。違いを認めようなんて謳いながら、多様性の時代だと喧伝しながら、実はその勝手に決められた枠組みから外れるものは破壊してもいいという風潮は、よく考えてみれば恐ろしいものだね。言葉化しているそれと、実際の体験が乖離している具体的な例であるとも言える。抽象化された言葉だけをスローガンにして、具体的なここの戦術にわざと落とさないこれらには、必ず裏の意図があるみたいだから気をつけてね。