万物流転
愚かさ
あなたも含めて、誰しもが間違いを避けられない。しかもそれはベストを尽くした状態でもあり、まさか後で振り返ってみるとそれが間違っていたなんて予想だにしない。だから、どうしてもそれに固執して突っ走ってしまうことが多い。それを一般的には正義というわけだ。正義なんていうのはできれば捨てたほうが良いのはそういう暴走を食い止められないことが多いからだ。かといって悪の使者になれ、と言っているわけではない。けれどもあなたの正しさは本当に宇宙の法則と比べて微塵も狂いがないのかどうかぐらいは、普段からチェックできる方がいい。人との付き合いに疲れてしまうのも、あなたが正しさを手放すことができないがゆえに、どうしてこんなことがわからないのかとか、どうしてそれを正しいと思うのかとか、そういうズレが時間を経て恨みつらみに変わってしまうからだね。
信念
そう、信条や信念はもちろん何をどうしようと自由だ。けれども、そこに固執するのをやめることが可能であるならば、ちょっとだけ俯瞰してみるのも一つの手だね。あなたのこだわりと正しさがすべてであって絶対であるという考え自体が、実はあなたを縛り付けている原因そのものだからね。一つの信条に縛られすぎるとそもそも抽象度を上げた分析は諦めざるを得ない。もちろんその必要もなくなるので、何かを固く信じるということはある意味生きる知恵でもある。けれども、時々それを自らチェックできるとさらに良くなるのは間違いない。時代も状況も環境も情勢もどんどん変化していくのが自然の摂理だとしたら、その中の真理は絶えず変わり続けることだけになるはずだからね。もちろん温故知新で先人の教えも大切ではあるけれども、それをそっくりそのままでないといけないという制限をかけた途端に無理が生じることが多いはずだ。
疑念
そういった強力な原理主義的な教えには、その伏線として少しでも疑うと効果がなくなるという罠が仕掛けられていることが多い。それもいいけれども、あれもいいかもしれないとかいうのはタブーとなる。もしくはもっと改良して良いものにしようとかするのも、ご法度になるわけだ。それは先人がしかけた巧妙な仕掛けであって、それを突破することができるのも今のあなた以外にはいない。そもそもそれができたときにも、型破りな誰かが生み出したものであるし、それを簡単に見破られないようにしたのも、それまでの何かをかつての誰かが変えたからに違いない。ということは、原理主義的な教えというのは、その時々において応用すべきだということにもなる。こだわりを持ち続けるというのは、ある意味それが生き様にもなるし、悲惨な歴史にもつながることがあるので宙ぶらりんぐらいがちょうどいいみたいだ。