断蜜

日々

それでもくっつきたい

今はソーシャルディスタンスとかで、人と人の間をあけて生きていくことが求められているね。TVショーではそれでもくっつきたい人が揶揄されてしまうご時世。こんなときにどうしてそうまでしてくっつきたいのか、危険を冒してまでくっつくのは愚かだとか、自己中だとか、そういう批判運動を毎日毎日展開している。「新しい生活」のスタイルを社会が押し付けようとしている最中でも、人はやっぱりくっつきたい、そばにいたいのはなんでだろうね。

ひとつになりたい

幸せを感じる時は、人は何かとひとつになったとき。波の動きと一体になったサーファー。目の前の雪山の地形をと同化したスキーヤー。相手の心の先の先まで手が見える勝負師。心地よい音をひとつにまとめるミュージシャン。苦楽をともにしてきた仲間と勝ち取った一番というひとつしかない場所。よくわからないけれど、人はバラバラのままよりも、人でも自然でも気持ちでも、何かと融合したときに至上の喜びを感じるようにできているんだね。逆に孤独を感じるときっていうのは、たいてい置いてけぼり、ひとりぼっち、誰とも何にも関わりが見つからない時かな。寂しさで死んでしまうウサギと例えられることもあるけれど、なんで自分ひとりだけと考える視点が大きな不幸を感じる発端みたい。

心の距離

物理的な距離がどれだけ離れていても、心がつながっているから大丈夫だよと言う。命を守るためには離れていよう。命がなくなったらこの世から消えてしまうから。この世という心の世界を起点とするとそういう考えになるね。それでも一緒になりたいから、今では遠く離れていてもデジタルネットワークで繋がることもできるなら、どんどんそれに変えよう。そういう「新しい生活」スタイルを求めている。そうは言うけれどなかなかそうならないのは、やっぱり単純に「さびしい」からだろうね。生きているイマを誰かと「手を取り合って」共有したいという思いは誰にも止められないのかもしれないね。まぁ、いずれはデジタルネットワークでも「手を取り合って」という触覚を感じることも可能になるかもしれないけれど。それでもやっぱり「身体の触れ合い」を求めてしまうかもしれないね。

イマから離れると

こんな生活がずっと続くなんてと、イマから離れて未来を考えると途端に苦しくなる。前はこんなふうじゃなかったと、これまたイマじゃない過去を思い返しても切なくなる。どうやらイマから離れてしまっても結局不幸になるという仕組みは変わらないみたい。イマ、誰かとくっつきたいという強い思いはかなり根が深い問題だね。実はぎゅっとくっついたところを探し求めるためにあえてバラバラになったのかもしれないなんて穿った考えも頭をよぎるね。心の世界はいつも自分ひとりと思わせるようにできている。くっつきたいを叶えるためにバラバラになって生まれてきた。だからこそ人生に数々のドラマが生まれるわけだ。一見ハードモードになったように見えるけれども、逆に言えばさらに大きな幸せを手にしたのかもしれないよ。ちょっとひねくれた見方かな。

身体の世界はずっとつながっている

いつの頃からかすっかり支配されている、自分は基本ひとりぼっちという心の世界は、よく考えてみると実は身体の世界より後で生まれているよね。誰しも身体が生まれた時の様子をすっかり忘れている。自分という心の世界は身体の世界とは違うみたいね。つまり、生まれた瞬間から自分という心の世界があったわけではなく、その始まりも記憶としてはとても曖昧だね。身体の世界は生まれる前からずっとつながっていて、だれもがひとりぼっちでうまれてきたわけじゃなく、太古の昔から途切れることなくずっとつながっているからそもそも大きな流れの一つ。そういう意味ではひとりぼっちの瞬間なんてどこにもなかった。だからこそイマここにあなたがいる。それだけでちょっとは安心する?そんなこと言われてもなぁ。ああ、やっぱりそう思うよね。