倍返しの世界
争いごとの原因
子どもたちが喧嘩する理由は見ているととてもシンプルだね。どっちかが持っているものを持っていない不満などの比較の差で起こる。好きなお菓子が弟よりちょっと少なかったり、やりたいことが兄という理由でできなかったり、そういう格差がいずれ爆発して起こる。この話は何も子どもだからということでもないようだね。大人であっても、要するに持たざる者が有り余るほど持っている者に嫉妬するし、やられた分倍返しだとばかりに仕返しに躍起になっている。それはとても悲しい結果になるのはあなたはもう十分に知っている。かつての日本でも敵討ちが認められていた時代があった。今ではそれは廃止されているけれども、その理由もシンプルで、やったらやり返すという構造は、いつの時代であっても誰も得しない結果をもたらしてしまうことは、これまで何度も繰り返された歴史がすべて証明している。
マウント合戦
持てるものが、もっと分け与えなさいと上から目線で説いたとしても、持っていないものたちはなるほどと簡単に納得できるわけがない。それらは自由競争・自己責任という大義名分でごまかされた奪い合いの世界だからだ。理論的にも思考的にも奪い合いは、世界中どこを探しても人類の世界でしか存在しない。このことに気づくことができるだろうか。弱肉強食の世界だと見ている自然界の食物連鎖と資本主義社会のそれとを同じように語ることが多いけれども、実は全く違う世界を誤魔化しているだけのことだ。ならどうして奪い合いが始まったかを辿っていけば、それは資源でありエネルギーの奪い合いがすぐに浮上する。そう、有限であるからこその希少ななにか。今では石炭ではなく石油だったりする。それらがそれぞれの豊かさを実現している根幹であることがすべての原因だと言っていいだろう。
合理主義
生産手段が限られた貴重な資源で高価であるからこその、無理、無駄、ムラをなくそうとする。もし潤沢にあって、誰もが気にもとめないようなものであれば、この世から合理主義は消え去るだろう。それこそそれ以外の今で言う無駄なことを十分に楽しむことが生きることそのものとして皆が自然に受け入れるだろう。もちろん寿命という意味では有限である。その有限の生命を味わい尽くすのに無駄なんてなくなるだけで、あなたはそれこそ今やりたいことを存分にやることに熱中できるわけだ。悲しいことにその希少性からそれができる者はほんの一握りに限られてしまっているのあなたの世界だね。いつもその座を奪おうと虎視眈々と狙い続けているし、それができる特権階級と呼ばれる人たちは、その戦いに明け暮れる毎日を消費している。そう、実は奪い合うことで得することなんて全く持って存在しないとも言えるね。