夢のまた夢

日々

どう思うか

何かが起こったとき、あなたはどう思うだろう。それがあなたの世界を決定する唯一の要因だとも言える。あなたがそう思わなければ、それはなかったことになるし、あなたが誰かが言ったこととして重大に受け止めれば、それは重大事項になる。すなわち、あなたはすべてのことを判定している審判みたいなものだ。そのジャッジには全くの偏りがないなんて言えないだろう。だって、あなたがそうなると思えることしか判定できないし、これまでしたこともないはずだね。出来事は次から次へとあなたを悩ませている。けれども、それ以外の出来事も実は山ほどある。でもそれには全く触れずにスルーしている。そりゃすべての出来事に対応しなければならないなんて思ったところで、そんなことできるわけがないということも心の何処かで知っているはずだ。

オーバーフロー

そうやってあなたが一番気にすることばかりに時間をかけて判定していると、それ以外のことは必然的におろそかにならざるを得ない。幸福の四葉のクローバーを探しているとき、あなたはそれ以外は雑草にしか見えていない状況なんだからね。そこにもっと珍しい草花が目の前にあったとしても、あなたはそれを見ているようで見えてない状況になっている。そうやって毎日毎日情報が溢れかえって、むしろすべてを俯瞰してメタ認知するなんていうこともどんどん困難になるのは仕方がないことだとも言える。なら、幸福の四葉のクローバーを探すのをやめることが一番の解決策になるね。それでなくてもあらゆること、モノが溢れかえっていっぱいいっぱいの状態だというのに、あなたのこだわるそれを血眼になって探すなんていうのは、ある意味馬鹿げているわけだからね。

観測者として

結局はどう感じるかがどう生きるかと直結していることを看破すれば、どう感じるという部分をどうにかしようと七転八倒するよりも、それをやめることが得策だと知る。そう、何をどう見るかなんていくらでもバリエーションがあるわけだからね。あなたがそう思ったところで、現実はそうではなく、やっぱり思い通りにならないなんて嘆くこと自体が馬鹿らしいわけだ。逆にいえば夢のなかの夢だと見抜くことができれば、あなたが好きなそれを感じることができるようになる。実はそれが幸せの正体だね。どんなことや状況であっても、これは夢のまた夢だと明確に観測できるならばすべてがあなたの見たかった夢に変わるだろう。出来事の方をなんとかしようとするのはそもそも最初から無理ゲーだ。そうではなく、それをどう思うかに磨きをかけていくことの方が楽しい人生の最短距離でもあるわけだ。