すべてを受け入れる優しさ

日々

相手を飲み込む

揉め事はいつも自我のぶつかり合いだね。絶対こっちのほうが正しいと思っている人同士の争い事ばかりだ。だから一筋縄で万事解決とはいかないことが多い。それでずっと悩まされ続けているわけだ。けれども、自我は自我でしかないから、たとえ自らの非に気がついたとしても、誰かのあら捜しに余念がない。言い負かそうとどこかにあるほつれを探し続けることになる。そしてお互いにそれが永遠に続くことで後で振り返ってみれば不毛な時間ばかりそこに広がっていく。たかが時間といえどもそれは命そのものであり、それをしなければもっと有意義なことに使えたというのにね。そうやって、争い事は望まないのにもかかわらず、常に巻き込まれて疲弊している毎日を送る羽目になる。なら自我を手放せばいいだけのことだと気がつくも、それを許してくれない立場とか状況にがんじがらめになっている。

受け入れるには

相手の自我をすべてまるごと受け入れると、その不毛な時間は軽減できることを知っている。けれどもあなたの自我はそれを許容できないままでいることが一番の原因だね。そうやってお互いのあら捜しに夢中になっているときは、あなたはあなたの時間を過ごせないままにいるわけだ。なら、思い切って相手の自我をありのまま受け入れてあげることができれば、それで収束するだろう。残るはあなたの自我との決着だけだね。それが一番の困難だと想いこんでいるけれども、すべてを受け入れることができるあなたは、もはやあなたの自我は消滅しているとも言えるわけだ。こうあるべきだとか、これが正解だとか、これが正義だとか、そんなちっぽけなあなたの自我がすべてを受け入れる大きな障害になっているとすれば、それこそ取るに足りないことだとさえ気がつくだろう。

譲れないのは

それでも、譲れない何かが残るだろう。それは何かといえば、あなたがあなたとして幸せに生きることだね。さて、誰かの自我とあなたの自我がずっとぶつかり合い、いがみ合って苦しい時間ばかりが多くなるのはあなたが望む譲れない何かだろうか。よくよく考えてみればそうではないことにすぐに気がつくだろう。そう、実はあなたがそのちっぽけな自我を手放すことで、あなたは穏やかに日々を過ごすことができることは間違いないね。ならば、あなたがそこまでしてあなたの正しさにこだわるのは得策だろうか。もちろん人生は損得ではないけれども、あえて苦しい道を選ぶ必然もない。あなたが誰かの自我をすべて受け入れることで丸く収まるならばそれでいい。しかもそれらはお互いの相手を思う優しさでそうなっているとするならば、本末転倒も甚だしいわけだからね。優しさの向こう側が不幸の連続なんて、どう考えてもおかしいことだよね。