先にお代を

日々

眼差し

あなたはいつも他の人の視点だったり、いつの間にか誰かに押し付けれられた幸せを追い求めている。あなたの中の悪と正義もそうだし、成功とか失敗もそうだし、愛情と憎しみもそうだろう。それらは先人たちの知恵でもあるし、最近見たSNSの投稿だったりする。そうやっていつも誰かの視点に振り回されることで、完全にあなたはそこに不在になってしまっている。どこから見つめているかが乗っ取られている状態が長く続いているのではないかな。だから、すべてが目まぐるしく変わることにあなた自身が追いつくことはないし、消化不良のままそれらをむりやり飲み込んで、まったく同化できずに体調不良になっている。たとえそれらを受け入れるにしても、できればあなたなりのアレンジを少しでも加えてほんの少しでもあなたそのものに変えることさえできれば、世界は大きく変わる予感がずっとあるというのにね。

コスト

その世界で生きていると、何をするにもうんざりするぐらいの大きなコストが必要になる。たった一日楽しい時間を過ごすにしても、毎日のほんの少しの生きがいを得るにも、それらを感じる前にかならず何かしらの代償が必要な世界に閉じ込められてしまっているね。だから、そのささやかな時間のために多大な犠牲を払ってでもがむしゃらに生きている。おそらく心の何処かでは何かおかしいと感じつつもね。あなたがあなたらしく楽しむだけのために、どうして必ず先に差し出す何かが必要なのか。よくよく考えてみればやっぱりそれもこれも全て、あなたが楽しむ手段が他のなにかに依存させられているからに過ぎないわけだ。それが充実した日々かどうか、楽しんで過ごしているかどうかなんて、あなた自身が決めることだというのに、おかしな話だね。

舵を取る

誰かやなにかにあなたの人生の舵取りをさせて、いわばオートパイロットで知らず知らずに運行している。そこに気がつけばすぐさまあなたの人生の舵取りを自らの手で取り戻すことだ。流行りの何かに乗っかっても、現代の幸せの形を模索しても、それらはあなたが舵を取るのならばおそらくは幸せな世界となるだろう。ところが、あなたがそれをしないままであれば、何をやってもすべてが徒労に終わってしまうね。そしてなんて世知辛い世界なんだと夢中になったあとに虚しさをいつも感じることになる。何か興味があることを始めようとするたびに、そのためのコストが先に必要だなんて馬鹿げている世界にずっととどまって、楽しむことすら億劫になってしまう。そしてついには何かをやることすら面倒になって無気力になるわけだ。そのときあなたはきちんとあなたとしてそこにはいない。そうであるならば、あなたがそこにいてまず何をやらなければならないかがすぐにわかるはずだ。さらにはコストなんて必要もなくすぐにできることがあることに気がつくだろう。