弱さという武器

日々

譲り合い

奪い合えば足りず、譲り合えば余る、なんてことはよく言われるね。誰もが今ここに必要以上の何かを得ようと一斉に競争し始めると、途端に資源は枯渇してしまう。ところが必要最低限でいいやと皆が思えば、大いなる自然の恵みは豊かで有り余るほどになる。不思議なことに、近代から現代においてあらゆる覇権争いがずっと続いてきた。そんな大きな話でなくても、あの人より少しだけ多いとか少ないとか身近なことでも損か得かで日が暮れている。比べ合うために必死になって努力して、多くを獲得することが最終ゴールだと信じて疑わない。すべての目的がそこにあり、売上を少しでもあげるためにいかに集客するか、ものを売るためにいかにコマーシャルを展開するか、それが正義であり誰もが求めるべきことだと思いこんでいる。持たざるものは敗北者だというその理論は、実際にあなただけではなく多くの人をどんどん貧しくしているというのにね。

持たざるもの

それらの枠組みから外れて生きることを落伍者として認識するようになったのも、強者の理論とも呼ぶべき富を持つことが人生の勝ち組だと定義するからだ。ところがよく考えてみればすぐにわかるように、何も持たない強さも確実に存在している。よく例えられるのは、生まれたばかりの赤子だろう。赤ちゃんは全くもって自ら生きる術を持たない。財産の地位も何もないわけだ。そこで親や周りに100%依存するしか生きる道はない。それでも幸せに生きられるのは、すっかり一番もたざるものとしてのその愛らしさというパワーに大人が動かされているからだ。大切にされ、なによりも愛される存在として、実は最強の存在としてそこに君臨しているね。それが大人になるにつれ、自己責任だの富を獲得することが全てだとの言われて、すっかりその気になって奪い合いという戦いに明け暮れるようになってしまうわけだね。

不足

すべての能力がたりないからこそ、そこに仲間が生まれる。もしあなたが一人完結しているのならば、他人を必要としないだろう。すべてを自己完結できるからね。そういう人はおそらくは稀にしかいないだろう。あなた一人の力なんてほんのちっぽけなものでしかない。要するに足りていないわけだ。そこで足りていない他の誰かと生きることで、互いの生きる術を補完しあっている。これまでは自己完結することが最強の存在だと信じて疑わなかったけれども、実は不完全で完結していないからこそ、したたかに周りの援助を受けつつ生きながらえることができているわけだ。そういうことが分かれば、実は最強の存在は多くの富を持つことではなく、いつも誰かに頼りながらもそれによってあなたらしくいられることが一番の存在だと気がつくね。さて、今のあなたはどんな強みをすでに持っているだろうか。