すべてお見通しのトロッコ問題
答えがない問い
有名なトロッコ問題。命の数と重さを比べられるかという問いに対して答えを迫る思考実験だね。シンプルにそれだけ。思考実験なんて言葉遊びに過ぎないと相手にしないでいいとは思うけれど、実験にちょっと参加してみたらいつも知らず知らずに下している判断の癖が見えたりするね。でも社会を効率化、システム化するために、気がつかないように普段からトロッコ問題が執行されているってこと。そのことを注意するっていう問題定義としては優れていると思うよ。そう、わたしもあなたもレールを切り替えた経験が少なからずあったり、その判断に加担したりして、行き先が変えられたトロッコを目の当たりにしてるってわけね。それもそれほどジレンマを感じないで、冷淡に大胆に。もしかしたらいいことをしたとか思っているかもね。想像するとちょっと恐ろしいね。
ふさわしいこと
世の中で悪いことをする。これは法律とルールで決められている約束を破ったときだね。そうすると法律では裁判で、ルールでは例えば会社とか学校とかで、破った罪にふさわしいだけの罰則が下される。これは見慣れた風景ではないかな。特に判決を知らせるニュースでは、「量刑相場」という、過去の判例からこれぐらいの約束を破って迷惑をかけたら、これぐらいの懲罰を与えるのがふさわしいとかがあって、それに今回の量刑はふさわしいかどうかを報じている。これがだいたいの民衆感情と一致していれば、多くの人も納得っていう仕組みだね。極刑を持ってしかるべしとか遺族側が訴えると、そうだそうだと納得できる自分は、トロッコのレバーを切り替える一味となっているはずだし、それも正義の使者としての止むを得ない判断だと信じて疑わなかったりするね。
そして勤めている会社に行く。今日の経営会議で、利益率が急速に悪化している取引先がある。そのときに合理的選択は何か。当然その取引先を打ち切る。取引先という命の匂いを消した言葉に変えて、素早く賢明な判断を下せる。なぜだろう。取引先という無機質な言葉を使うことで、トロッコ問題のジレンマが消えている。まぁ、トロッコ問題のような重大な判断ではあるけれど、トロッコのスピードがゆっくりなのか、距離がかなりまだ遠いみたいだから、方向を切り替えるレバーを気軽に触わっても、そのうちなんとかするんだろうと思っている。その分気軽にズバッと取引を中止できるっていうわけだね。実際どうなるかなんて、あとは見ないフリ。
数字は事実ではなく抽象
経営者が数値を注視する。為政者も数値を語る。そして数値から現状把握してトレンドを分析する。かっちょいいね。全能の神のよう。でも犠牲者何人、救出者何人とか、数値で表すことはできるけれど、それは何か事実や実感を表しているわけではないということに注意しないとね。数値だけ見ているというのは、おそらく神様視点で世の中を俯瞰している状態だね。人が感じる死というのは三人称ではない。統計データを見たところで現場で何が起こっているかなんて把握はできない。逆にそこをうまくごまかすために、連日連夜、報道では人々に数値だけを伝える。それを見た人々の毎日の会話は、「今日は何人?」というのが合言葉になる。得体の知れない不安を感じさせることには成功しているけれども、実際目の当たりにした何かを伝えることはない。その結果見事にトロッコ問題の答えをあまねく人々に迫ってきているよ。「このままだと明日はとんでもない数になるよ」と。ほら、ジリジリとわたしもあなたも切り替えレバーに手をかけさせられているよ。なんだかとっても怖い世の中になっちまったな。