誰にも邪魔されないこと

日々

学び

うまくいくとかいかないとか、そんなことばかりに振り回されて、あなたはあなた自身を見失ってしまっている。そのうまくいくいかないという基準が全部あなたではなく誰かと比較としてのことだからだ。さらに言えばそもそもそれをやろうと思ったのも、たまたま生まれたものでしかなく、あなたが自らの意思でそうしたわけでもない。それをやらざるを得ない状況になったから、あなたなりにやったまでのことだね。となると、それらすべてを勘案してみると、あなたがそれに介入している部分はほとんどないことに気がつくだろう。たまたまそれが現れて、勝手に何かが起こり、それを見てあなたはがっかりしている。いわば見せられていることをあなた自身のことだと思いこんでいるだけとなる。だからそれほど深刻に思う必要なんてどこにもなく、それを見たあなたはそこから学べばいいだけのことだね。

観客

あなたは、日々起こることをあなたという主人公から少し離れた別の場所から見ているに過ぎない。どっちが本当のあなたなのかはこの際問題ではなく、あなたはあなたを俯瞰して見ているという二重構造が必ずあるということだ。眼の前の問題に無我夢中で対応しているときは、あなたは主人公のあなたと同化している瞬間はあるけれども、その結果を見るときは、やっぱりあなたはそこからは離れたどこかから見ている。そうしないと、その結果や全貌が見えないからだ。そしてそうやって視点を自在に動かすことで、あなたはあなた以外の誰かと比べることもできるわけだ。あなたがあなたから離れられないとすれば、客観的に何かを判断することなんてとても難しくなる。でも、視座を自在に操ることができるからこそ、すぐにその判断をすることができてしまう。そしてすぐにがっかりすることすら可能なわけだ。

あなただけの楽しみ

だからあなたがあなたを楽しむには、余計な情報を遮断することが必要となるわけだ。誰かがどうなっているとかはあなたが楽しむのには不要だね。あなたがあなたとして楽しむのならば、あなたがやりたいことを大切にすればいい。もちろん、それが誰かまでに波及するようなものは、やっぱり誰かという余計な情報が入り込んでしまうわけだから、それも楽しむには邪魔となるわけだ。あなたがあなたとして夢中にできることで、かつ、誰かという情報を考慮しなくてもいいことが、あなたがあなたを楽しむことができる最高の環境となる。おそらくそれは世間一般とか他人には全くもって無意味だろうし、そんなことしてどうする、みたいなものかもしれない。でも、誰にも迷惑をかけたり影響を及ぼさない範囲であれば、完全にそれらを無視することができる。それがあなたとっての本来の楽しみだね。だから、それをやらない理由なんてどこにもないんだから、安心して堪能すればいいんだよ。