無駄を楽しむ
夢を描く
最近、夢を描くことが苦手な若者が多いようだね。あるべき姿なんでいうとなんだか決まりきった常識にとらわれてしまうようで、そんなのは流行りではないのかもしれない。あるいは自らが良いと思っていることが実は社会的にはあまり受け入れられないかもしれないというおそれがそこに横たわっている感じがする。だからあまり自己主張するよりも、周りに流されつつ空気を読もうとするわけだ。だから、自らで何かを決めるというリスクをできる限り避けて、皆がどうするかを注意深く観察することに徹しているわけだ。それゆえ、例えば暑いと思っても勝手に窓を開けられないし、指示されない勝手な行動を良いとは思わないようになっている。それもこれも指示待ち人間だと揶揄する大人が、そういう風にしてしまったことなんだけれども、当の本人たちはすっかり忘れてしまっているね。
わがまま
かと言って、傍若無人に振る舞う勇気を持て、なんて言うつもりなど誰もないね。もちろん対話しつつ、その時々でどうすればいいかを考えるのがいい。でも、あまりにもそれで失敗をすることを恐れすぎるがあまりに身動き取れないようにしてしまっているだけのことだ。心遣いがほんの少しでもあれば、仮に何かを自らの判断でやって、それによって誰かが嫌な思いをしたとしてもリカバリーと説明責任は果たせるはずだね。ところがそんなちっぽけな失敗すら許されないという風潮がすべてをだめにしている。もっと言えば、失敗しないようにずっとお膳立ての中で生きてきたわけで、それが急に自己責任だと押し付けられたところで急にそれに転換できるないで困惑しているわけだ。先生や親や先輩に従うことが良いことだとあまりにもずっと押し付けてきたがゆえの結果だとも言えるね。いつから失敗がそれほどまでに許されないミスという意味にすり替わったのだろうね。
成果主義と責任
過程より結果が重要だというグローバリズムの台頭によって、結果ばかりが注目されるようになってしまった。それと同時に意味がないことは無駄だというレッテルを貼られたことと同じだね。無意味が無駄となっていつのまにかそれらが悪となって認識されることによって、無駄をいかに排除するかが評価の対象となってしまった。人生のおける結果とは、地位であったり利益であったり財産であったり、それらを掴み取る成功がすべてになった。そのせいで、それらを達成できない存在は無意味であり無駄だと揶揄されるようになった。それが今の時代何をもたらしているのかを鑑みると、自ら夢やあるべき姿を描ききれないことの原因がそこにあることがわかるだろう。あなたにとっての楽しみが無意味で無駄だと判定されてしまうと、あなた自身の存在が否定されてしまうわけだ。すべてになにかの意味がないとだめだという風潮が、あなたや社会全体に蔓延していることで幸せになれるのは誰か。それはもう明白だね。無駄を楽しもう。そもそも人生は過程がすべてであり無意味で無駄なものでいい。だからこそあなたが勝手に意味を見出して楽しめばいいね。