言葉遊び

色々

厳密に定義できない

言葉は厳密性に欠けるとか普段から言い続けているから、すっかり変人扱いだわ。でもよく考えてみてよと言いたい。結構な揺らぎを含まざるを得ないのが言葉なんだよ。例えるときりがないけれど、ある人がある場面で、「命より大切なものはない」というときの「命」の意味するものと、また別の場面で「命より大切なものもあるんだよ」といったときの「命」の意味合いはきっと微妙に違うものになるんだね。単語はひとつ「命」であって、辞書で調べたりするときちんとイメージは説明はされているんだけれど、言葉を言葉で定義しているから、わかったようなわからないような説明みたいになってしまう。あくまでもそれは共通するイメージを超えられないわけですね。だから辞書で意味を調べてみても、厳密に説明してあるわけではないので、「え、そんな簡単な説明になるの?」なんてちょっと違和感を持つ人もいるだろうね。先の「命」を調べてみても「生き物が生きるもとの力や生きている期間」という説明があっても、結局それはぼんやりとしたイメージであって、厳密な意味を表しているわけではないというわけね。あいまいな言葉があいまいな言葉で言い換えている。今で言うところのコアイメージを言っているだけであって、その境界線は微妙に揺らぎがある。つまり人によって、場面によって、文脈に依存するわけで、そもそも厳格に定義できるものではないのよ。え?そんなことないって?

ネコはどこまでネコ?

イヌを見て、あれはネコに違いないと言えば、それは間違いだと言える。それは定義というよりも、イメージが大きく違うから間違いだとなる。しかし、多くの人がネコはどこまでネコとしているかには揺らぎが含まれてしまうわけですね。ネコがトラに見える境界線ははたしてどこか。トラはどこまではトラなのか。DNA鑑定でもする?専門家ではない限りかなり怪しくなってくる。だからコトバだけを捉えて、攻撃したところで、明らかにコアイメージから外れていない限り多くは不毛になってしまう。連続性がある自然物や現象を一瞬切り取ってでしか表現できないのは、言葉が発音とともに記号化できるからであり、連綿と動き続けているものを無理やり固定化することになってしまう。だから言葉にされたものは実在しない。おおよそをとって共通化しているにすぎないわけね。つまり言葉は固定化して一瞬を切り取る強力なツールではあるが、連続事象に弱いというわけだね。時代によっても言葉自体の意味や言葉自身が変化していくのもそういう言葉の性質によるものなのね。

言葉の「命」

それじゃぁ、意思の疎通とか会話に困るよね。だから一旦のイメージを仮置きしていくのが言葉。コロコロ変化する時間が短いものにはなかなか名前をつけられない。けれど大きな流れでゆったりと変化するものであれば固定化すると便利だよね。たとえば昨今の「新型ウィルス」という呼称はなんだかよくわからないし、今までとは違うから「新型」と呼んでいる。で「新型」が「旧型」に変わるときはなんだかよくわからないものから、ずいぶん研究が進んで「よく知っている」ものとなれば「新型」は別の言葉になるだろうね。でも「よく知っている」ところから急に変化してしまうとまた「新型」に戻るのかな。それとも亜種として分類するのかな。それは専門家に任せるしかないね。

名付けるとそれがあると思い込む

でもしばらく「新型」とか「観測史上最大の」とかの仮の言葉を、「なんだかよくわかない」という表現として使っていると、それが固定化されてひとつの「固有名詞」となってしまう。そうすると先の言葉の弱点が露呈するよね。「なんだかよくわからない」からこそ、個別の特徴や性質をしっかりと研究して解明していかないといけないのに、それ自体が「固有名詞化」して一人歩きしてしまう。だから「なんだかわからない何か」として一括りに認識してしまうと、さらに「なんだかよくわからない」から「新型ウィルス」という何かわかった風に変化してしまうのよ。安易に言葉を使うってのは実はとっても注意を払わないと、その時点で「わかった」気になってしまう。ネコと一言で表しても実際にはいろんなネコがいる。毛並みや性格や行動が少しずつ違う。そんなことは当たり前なんだけど、病名や事象を一旦名付けてしまうと、それが絶対になって細かいことを疎かにしがち。そこんところ注意しないとね。

結局「言葉遊び」してんじゃねーよと言われるね。あはは。言葉は実存しないものを表しているから、どう頑張ってもそうなるね。