愛と信念
信じる
理屈抜きで信じることは、愛することと同じことだね。そこにはありのままを受け入れる覚悟と、損得勘定を超えていてなんとも説明がしにくいことしかない。逆に言えば、信じられないことは論理的に説明できないことであり、整合性が保てないものだからだね。なんら根拠も計算もないそれをただただ受け入れて愛することでしか、信じることができない。あなたにもそれなりの信念があると思っているだろう。けれどもそれが説明可能であれば、ちょっと疑ったほうがいい。他方でどうにもこうにも説明しにくいものだとすれば、それこそが信じるに値するものだ。少しでもそこに計算や打算があるのならば、あなたは本当に信じているのは理屈であって、それはすなわち説明可能なものでしかなく、他人を意識していつでも言いわけができる逃げ道を確保しているだけだからだ。
願いと感謝
神社に行って何かを祈るとき、あなたは未来の幸せや安寧を求める。けれども、そうではなくこれまで無事になんとか過ごせたことを報告するとき、あなたはすべてに感謝をするだろう。これらは全く違うベクトルにあるね。願ったり祈ったりするのは、現状に対してあなたは不満であって、不足ばかりを補おうとしている。一方で感謝を述べるときは、もうすでに終わっていることに関する完全なる受容の中にいる。どちらかというと感謝できることを幸せに思う方が、まだ見ぬことを望むよりも幸せを感じられるはずだ。足りないことを補わなければならないということよりも、何不自由なく過ごせてきたことに奇跡を感じられるかどうかがその分水嶺となるわけだ。さらにどちらかというと常に今にあれという視点でも、いつか来る未来ばかりにとらわれてしまうよりも、今何ができているのかを確かめつつ、やれることを探す方が結果的にはうまくいくのはそのせいだね。
自己と意識
同じようにありのままの自分を受け入れるのと、このままではいけないともがき続けるのも同じように真逆の関係にあるね。ここで注意しなければならないのは、ありのままを受け入れるということは決して消極的な意味合いを帯びていないことだ。ややもすればありのままでいいというと、なら努力もつらいこともやらなくていいという意味で自暴自棄になったりするのは、そこに信じることも愛することもそこにないからだ。そうではなく、理屈や損得勘定を超えたあなた自身を取り戻すことに本来の意味がある。それは、あなたを愛するように他人も愛せるはずだし、すべてを慈しむことができる。一方であなたが不足ばかりに目を向けて、他人を見れば羨ましく思い、できればあなたもそうなりたいとなんとか画策しているような状況で、そんな憧れの人を愛せるわけがないね。だからこそ何ら根拠のないあなた自身をまずは信じ抜くことが、一番の幸せの近道なんだよ。