愛の行方

日々

意識の方向

あなたが見たいと思った方向に目を向ける。そしてそれらを見た瞬間にあなたの命がそこに吹き込まれるわけだ。逆にいうと、あなたが見ていないそれらには全く意識が向いていないだけでなく、あなたの愛がそこには吹き込まれることはない。あなたがおろそかにしているそれらは、自然と同じく野生状態であり続けるわけだ。もちろん、それらは独立した大自然の姿として大きな秩序の中にある。だからそれ自体はなにか悪いものではない。けれども、あなたが大切にしたいこと、愛おしく思っているそれらとは違って、あなたにとっては無秩序であり、手つかずの状態であるわけだ。ところが、例えばあなたが愛用している道具たちは、常にあなたの意識が向けられており、いつも整然とそこにある。それらが仮に壊れたり、汚れたりすれば直ちにあなたはそれらに対処しているからだね。

都市と自然

町並みも同じことが言えるね。手つかずの自然はそれ自体素晴らしいけれども、それらにある程度手を入れることで整然とした適度な快適さを持っている。例えば古くは田舎の里山なんかがそうだね。あれは自然ではないと揶揄されることが多いけれども、手を入れすぎることがないけれども、それなりに快適に過ごせるように施されている村は、そこでの生活がそれなりに心地よいわけだ。ところが過疎化が進み、それすらできないようになってしまえばあっという間に大自然の状態に戻ってしまう。それが本来の姿であり、自然は素晴らしいものだとかなんて言う人がいるけれども、そういう本人はずっと暮らし続ける場所ではないとも思っているね。たまに数日過ごすには良いけれども、それは逆に言えば都市での便利な町並みに戻ることができるという前提での意見でしかない。

愛すること

そうやってあなたが意識を常に向けることは、それを愛していると言って良いね。しかもそれはなんてことのない自然にあなたの命を吹き込んでいることと同じだとも言える。そのまま放っておけばあっという間に手の施しようがないぐらいになってしまう。けれども、あなたが少しずつでも手をかけることによってそこに心地よい空間がずっと維持されていくわけだ。それが面倒だからずっと後回しにして、都市のように区画整理をして外見だけを取り繕うことが結局は便利で合理的だと思い込んでいるのが現代社会だね。虫も自然の変化も寄せ付けないようにコンクリートで固めてしまった街に住みつつ、わざわざコストをかけてちょとした自然を求めて週末にでかけているわけだ。そのためにつらい仕事をずっとやり続けている。おそらく自らが何をやっているのかもよくわかっていないとも言えるね。まずは身の回りのあなたを支えてくれているものに意識を向けてみよう。それだけで見方が大きく変わるのだからね。