華麗に足りない
足りない
なにもかもすべてが足りないね。お金もそうだし、日々の幸せももうちょい欲しいし、できればもう少し素敵な人と出会いたいし、もうちょっとチヤホヤされたいだろう。そんな思いとは裏腹なことばかりが毎日これでもかといわんばかりにとめどなく降ってくる。まるであなたが欲しいものをわざわざ避けて、あなたがいらないと思っていることばかりがこれみよがしに起きる毎日だ。これを地獄と呼ばずして何なのかという思いになるのもある意味仕方がないのかもしれない。これまでどれだけ神様にお祈りしても、何一つそれを叶えてもらったことなどないのだからね。願いは叶うとか簡単に言うなよって呟いてしまう。そんな絵空事には興味はない。そんな風に思えば思うほど、事態は最悪なままなのは言うまでもないだろう。
夢を持つには
でも、だからこそあなたは夢を描くことができる。希望も絶望の縁がないと存在すら危うい。願いも足りない現状がないと成立しない。よくよく考えてみると、すべてが不十分だからこそあなたはその謎解きができる可能性が生まれているわけだ。何一つあなたが望むそれは得られないからこそ、いろんなヒントからそれを探す冒険ができるわけだ。もうすでに感じているだろうけれども、生きるとは謎解きそのものと言っても過言ではないね。仮にすべてが満ち足りたらそこには夢も希望も存在し得ない。もっと言えばあなたのその充足感も消えてなくなってしまうだろう。充足とは不足と対になっているからこその際立ったフレーズであり、本当にすべてが充足したら何をもって充足なのかを見失ってしまうわけだね。もちろん、それ以上のモノサシを急ごしらえすることで際限がなくなることが多いのもすでに知っているね。
運の良し悪し
運を掴むとか幸運に恵まれるとか、それもおかしな話でそれ自体が自己矛盾している。運とは努力や願いやあなたのなにかでなんともならない、制御不能であるから運と呼ぶわけだ。だから幸運を掴むためにはどうするとか、その時点でそれは運ではない別物にすり替わっているね。それも誰かの力でなんとかなるのならば、運ではなく縁と呼ぶ方がいいかもしれない。縁もまた予測不能なもので、それは幾重にも偶然が重なってのアウトプットだからだね。そのプロセスがあまりにも膨大でかつ複雑に絡み合っているから、辿っていけばその由来はなんとなく掴むことができるとしても、遡るにも限界があるからそれもまた絶対的な原因ともいいにくい。となれば、運も縁もすべてが見えないからこそ、言い換えれば結論づけるにも一部しかエビデンスがなく、すなわち全くもって足りないからこそのものだね。そう、あなたは不完全ですべてにおいて足りないからこそ、あなたとして今そこに出現しているとも言えるわけだ。