議論もどきにご注意あれ

日々

スペクトラム

言葉では極端な対語となってしまう傾向にある。白か黒か、0か1か、善か悪か、そうやって表現せざるを得ないツールの特性を持っている。すべてが情報であり、言葉でできている。その言葉にそういう特性があるということはいつも留意したほうがいいね。あなたはどちらの意見を支持する立場なのかと、白黒はっきりしないと議論ができないと言われることが多い。その理由として、まずは議論の前に大前提として、発言者の主義主張や立ち位置はどこかを明確にしないと、結論を導き出しにくいからだ。実はその結論でさえ、結局のところ良いのか悪いのかという表現に帰結する。当座の結論を見極めるためにも議論を重ねるわけだ。けれどもそもそもどこにも存在しない区切り線を引くことで結論を生み出している。実のところそれらの主義主張も含めて実は濃淡であって連続体になっている。正直なところ、どちらかといえばある部分ではこちらの意見に傾いているけれども、かといって両手をあげて賛成ではないという状態であることがほとんどだろう。

極論

そこですっきりするために、あえて極論を展開して見る。そのことで極論が成立しうるのかどうかを検証しているわけだね。ディスカッションの練習でもよく使われるように、まずは対立する意見に賛同するか否かを問わず、役割として分かれる。そしてそれぞれがそれを強く信じているという前提を飲み込んで、反論を試みるわけだね。そこで注意したほうがいいのは、感情的になっては議論が破綻するということだね。だから、できるだけ慎重に言葉を選び、議題に対して論理的に意見を組み立てなければならない。それをやってみてわかることは、極論はすぐに破綻して、あとはスタンスや感情論で終始してしまうことが多い。一方で論理的に反論を組み立てる練習は、意外と議論そのものがぎこちなく展開していくね。その違いはもう明らかだね。

感性と理性

そう、そこには情熱だったり感想だったりが大きなウェイトを占めてしまうからだね。社会保障の議論であっても、年金もろくに貰えない高齢者が、爪に火をともすような暮らしを続けている例を上げて、だからもっと潤沢にしなければならないと主張する。議論はあくまでも論理的に進めないと成立しない。この例では議論の中に論理ではなく共感や感性に訴える表現が含まれてしまっている。だからこれは論理ではなく感情を揺さぶるための罠だとも言える。これはディベートやディスカッションのルール違反となる。あなたも議論は何度も経験があって、できるだけ論理的に反論や批判を繰り返してきたつもりだろう。でも結局腑に落ちない原因だったり、議論の余地もない原因は、もはや理屈を超えて感情論のぶつかり合いとなってしまうわけだ。そこは慎重に見抜けるようにして、余計な議論もどきに巻き込まれないようにしたほうがいいね。