あう、あわない
あわないものはいけないもの
それはあなたにとって合わないだけ。だから即座に否定するのはやめといた方がいいね。でも普段から正解を探す装置が働いてしまうね。なんだこりゃ。けしからん。でもそれは「自分にとって」あう、あわないということでしかない点に注意した方がいいね。そりゃ気に入らないこともたくさんあるだろうし、自分にとっては許しがたい、こりゃひどいって思う意見ほど、自分という「正解を探す装置」はすぐに見つけて目立たせてしまう。でもそれはあくまでも「自分にとって」であること。視点が変われば見え方も違うから、それを絶対とするのはちょっと待とう。だからといって相手に媚び諂ったりしろっていうわけじゃなくて、なんで、こりゃダメだと思ったのかを相手ではなくて自分自身に問い直してみる方が、辛辣な誹謗中傷にならなくて済むと思うけどね。
批判と誹謗中傷
論評したり批判したりすることは、瞬間に生まれる感情とは全く違うところにあるんだよね。つい、かっとなった感情の罠から、一旦離れないと批判的思考にはならないことがほとんどだよね。自分が握りしめている「正しさ」のルーツを辿っていくところから始めるのが批判や批評。実際それには結構骨が折れるし、場合によっては根拠などを調べ直したりしないといけないときも多い。SNSの投稿のように、短い文脈で背景や状況を十分に把握できないまま、思いつくままにリツイートしたりするのはちょっと待った方がいい。最近ではすぐに反映されないで、ちょっと一呼吸おいて「これはあなたの意見で間違いないですか?」と再度確認してから投稿される機能も追加されるとか。なんでもそうだけど「急いては事を仕損ずる」っていう仕組みを活用するのはいいアイデアかもね。即レスには多分に思い込みが含まれているし、そういう焦った状態ってのはよくないことが起こるきっかけになることが多いよね。
あうものだけにする
言葉の石を投げつける前に、まずは自分がどこにいるのか立ち位置を確認してみよう。たぶんどこかや何かに依拠しているよね。突き詰めて探ってみると結局は「自分の立ち位置を守るため」っていうのが、かっとなった感情の元になっているだけ。それを見破ると、その怒りのような感情は誰かがもたらしたものではなくて、間違いなく自ら生み出していることがわかる。そう、ついかっとなっているのではなくて、わざとかっとなっている感情を自分で作っている。ということは、コントロール可能なわけ。究極には自分と同じ場所に押し込めようとしている支配欲と同じだから、違う場所から見ているやつを排除しようとしているだけなんだね。
コインの裏表はコインが存在するだけで必ず生まれる。表だけのコインはどこにもないんだから、表を見ているか裏をみているか、はたまたその間をみているのかということの違いだけ。となると見ている場所が違うレポーターの人格がどうとかの攻撃はなくなり、こちらからはこんな風に見えるのはどうしてだろうというレポートしか生まれない。さらにその「どうしてかは」誰かの問題ではなく、自分の問題でしかなくなるよね。
はい、現場からレポートは以上です。