結果も過程
依存
ちょっと気乗りしないような出来事を目の前にしたとき、あなたはそれを紛らわすために楽しみを見つけてきた。例えば、幼い頃からちょっとおもしろくないことをやらなければならないとき、あなたの近しい人からご褒美をもらえたりすることを拠り所としてなんとか踏ん張ったりしたかもしれない。あなたを応援してくれている人たちも、あなたがそれをやり遂げたことを称賛してくれた。そうやって、向かい合わなければならない困難な出来事をなんとか乗り越えてきた気がしているね。ならば、それらの恩恵や助けが全く期待できないときは、ちょっとつらいことが大きな困難へと化けてしまうね。何かがあったから頑張れたのなら、何もないのにそうする逃げ道がなくなってしまうからだ。そうやって誤魔化し誤魔化しでなんとかここまでやってきたわけだ。
見返り
そうしていつの間にかあなたは、この世は見返りシステムのようなもので覆い尽くされていると勘違いしてしまう。大げさに言えば、良いことを重ねて徳を積めば、来世に必ず救われるという文脈なんかが有名かもしれない。それは逆にいうと、そういうことをしなければ永遠に救われることはないという絶望を裏側に隠している状態だね。だから、辛い思いと我慢することが人生のコアな部分だと思って、生きづらさを常に感じ続ける毎日だと感じてしまう。いつも救いは与えられるものであって、あなたの内なるパワーではないと思いこんでいるわけだ。何か褒美や願いが叶えられるから頑張ってきたというのに、それらの恩恵が全くないとなると、途端にあなたは憤ってしまうのはそのせいだね。骨折り損のくたびれ儲け、なんて言葉を使ってしまうのも、あなたの人生は、すべてあなたのためだけにそれらがあるということを忘れてしまっている証拠でもあるね。
過程
結果がすべてだという現代社会に生きるのは、確かにそういった勘違いを植え付けられてしまって生きづらいのかもしれない。でも実はそれはあなたの出した結果を利用したい人が言う呪詛だね。結果はその瞬間の一時的な残像でしかなく、輝かしい功績として特別視されているものも、実は過程の一瞬の切り出しに過ぎない。その正体を見抜くならば、あなたはプロセス自体を愛することができるはずだ。特に順位とか、仕上がりとか出来栄えとかは瞬間を切り出した過去の残像に過ぎず、だからといって毎年仮に一位であったとしてもそれらはやがてプロセスの一部に変わる。あまりにそれらに依存してしまうと、大きなエネルギーの流れからどんどん離れてしまうわけだ。過去の栄光は単にプロセスの一部であって、限定された条件が全て揃ったものでしかないからね。そうしてあなたはまた同じ風が吹くと信じて、その場から立ち去ることができないままになってしまう。もうそこには何もないというのにね。