空間

日々

関係性を重視するのが日本の文化でもあるね。自己紹介をするとき、西欧は何ができるかを中心に語るけれども、この国ではこんなふうに言われることが多いですと自分以外の関係性を説明することが主になる。比較的優しいと言われますとか、真面目な性格だと評される事が多いですとかだね。あなたが中心であるという主語があまり強くないのも、相対的に見ている証拠でもある。そこにあなたの信じているものがあるわけだ。自らがどうであるかをあなたを中心に見つめてはおらず、あくまでも関係性の中にあなたが存在しているということを、無意識に感じている。それが自己中とは違った価値観でもあるし、逆に言えば周りの環境ばかりに気を取られてしまっているとも言える。だからこそ、迎合的な自我がそこに芽生えるわけだ。

ヒューマン・ビーイング

人間という言葉がそのすべてを表しているとも言える。この国では間柄とか関係性が主たるものであって、個性とか自我が中心ではなかった。間違いという言葉があるように、間を一番に大切なものだと考えている。あるいは、間が悪いというのも、阿吽の呼吸というのも、そこに適切な空白があることこそが美徳だとされている。だから、グローバリズムとか言って、西欧文化に合わせることが先進的だと思っているのも、その反面教師であるとも言える。また、その自我を中心に自己愛の世界を受けれいる余白があるのも、そういった意味では納得できる文化でもあるね。関係性と余白を重要視する文化であるからこそ、無宗教を許容できるし、異教徒を受け入れることができるわけだ。そういう意味では多様性と力強く言わないまでも、それなりに個性を尊重してきた歴史がそこにある。

境界

それもこれも、真っ白な世界で個を際立たせようとするがあまりに、自らを真っ黒だとして主張するよりも、その境界に常に自らを置くという習慣がそこにある。真っ黒でも真っ白でもなく、その境目にあなたが存在しているわけだ。極端な個性を主張することもなく、皆がグレーであって、そのどちらでもなく中庸であるということが美徳と感じているのはそのせいだね。だからこそ、バランス感覚に優れているわけだし、グローバリズムでさえ受け入れられる余白があるわけだ。まさに七変化であって、全くの自由がそこにある。あなたは何色でもなく、何者でもなく、関係性の中にぼんやりと浮かんだそれである。そのことを忘れずにいれば、苦しみも喜びもその間を一番に愛しているわけだね。極端な自己主張がないのはそのせいだから、不安になることはないよ。